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佐伯藩(さいきはん〔佐伯藩の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)135頁「佐伯藩」の項などに見える通り、大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)制定)と同様に「さいき」と表記するのが通例だが、『日本歴史大事典』第5巻(河出書房新社、1979)46頁「佐伯藩」の項のように、改編前の「さえき」表記を用いる例も見られる。〕)は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。 == 歴史 == === 前史 === 豊後国は鎌倉時代に大友家の支配下にあったが、その国入りの際に佐伯荘を支配していた地頭の大神姓佐伯家は大友に協力したため、大友家重臣に列して佐伯を任されていた。佐伯家は栂牟礼城を築城した佐伯惟治の時代に大友に謀反を起こしたこともあったが、それ以外は家臣として大友家に尽くした(佐伯惟治の乱)〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P40〕。 大友は戦国時代に、第21代の大友宗麟・義統父子が南九州の制圧を目指して日向に攻め込むも、天正6年(1578年)に耳川の戦いにおいて島津義久の前に大敗を喫した。この敗戦で大友に従軍していた佐伯惟教・惟真父子は戦死した。以後、大友家中では一族重臣の内訌が激化し、対外では肥前の龍造寺隆信や筑前の秋月種実、そして島津義久らの侵略を受けて衰退していく。佐伯家は惟真の嫡子惟定が跡を継いで斜陽の大友家を支えた〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P41 - P42〕。 天正14年(1586年)に入ると島津義久は大友を滅ぼすべく大軍を豊後に侵攻させた(豊薩合戦)。10月23日に惟定は義久の異母弟家久より降伏勧告の使者を受けるが、惟定とその生母は頑強に抗戦の意思を示した〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P42〕。家久は軍勢を佐伯に差し向けたが、佐伯勢は総力を挙げて抵抗の意思を示し、島津軍は兵力で優勢ながらも野戦において佐伯勢に敗北した(堅田合戦)〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P43 - P45〕。以後、島津家久は佐伯には手を出さずに北上する。しかし大友義統が豊臣秀吉に臣従して支援を要請すると天正15年(1587年)には豊臣氏による九州征伐が開始され、島津軍は豊臣の大軍の前に各所で敗れて薩摩にまで敗退し、4月には降伏した。戦後、豊後1国は大友宗麟・義統父子に安堵された〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P47〕。 しかし文禄2年(1593年)5月、文禄の役での義統の敵前逃亡を咎められて大友氏は秀吉によって改易とされた。この時、佐伯惟定も義統に従い朝鮮に渡海していたが、主家の改易により浪人となり、佐伯家の佐伯支配は400年をもって終焉した〔宮明『シリーズ藩物語、佐伯藩』、P52 - P53〕。その後佐伯惟定は、伊予の藤堂高虎に仕官し、佐伯の家名を残した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐伯藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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