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佐竹義峯[さたけ よしみね] 佐竹 義峯(さたけ よしみね、元禄3年9月13日(1690年10月14日) - 寛延2年8月10日(1749年9月21日))は、出羽久保田藩の第5代藩主。第3代藩主・佐竹義処の弟で、出羽岩崎藩初代藩主・佐竹義長の次男に生まれる。母は松浦信忠の娘(松浦鎮信の養女)・聖相院。正室は筑前直方藩主、黒田長清の娘・利姫(円宗院)。側室に保野(ほの、安田氏、寛厚院)。伊與(永田氏、心涼院)など多数。娘に久松松平定喬正室・照、戸田光雄正室・冨、佐竹義明正室・直、松浦邦正室・壽らがいる。官位は従四位下、侍従。少将。右京大夫。幼名は仙寿丸。求馬。初名は義恭(よしゆき)。 == 生涯 == 元禄15年10月15日、将軍・徳川綱吉に御目見する。正徳5年(1715年)9月12日、先代藩主・義格の末期養子として家督を相続した。義峯は義格の従兄に当たり、義格より年長であった。同年9月28日、将軍・徳川家継に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従・右京大夫に叙任する。享保2年(1717年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。延享元年(1744年)12月16日、左少将に任官する。 義格と違って暗愚な人物で、倹約令を廃止して贅の限りを尽くし、藩財政がそれにより危うくなると家臣の知行を借り上げるなどして凌ぐ有様であった。寛延元年(1748年)には凶作が起こって、藩財政は破綻寸前となる。また、後継者に恵まれず、義峯本人は一族の佐竹義明を養子に望むものの、家老らの反対により、最終的に同じく一族の佐竹義堅を養子に迎えることになった。 寛延2年(1749年)8月10日、60歳で死去し、跡を養嗣子・義堅の長男・義真が継いだ。法号は円明院月翁智心。墓所は秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹義峯」の詳細全文を読む
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