翻訳と辞書
Words near each other
・ 佐竹義輔
・ 佐竹義道
・ 佐竹義遵
・ 佐竹義邦
・ 佐竹義郷
・ 佐竹義都
・ 佐竹義里
・ 佐竹義重
・ 佐竹義重 (十八代当主)
・ 佐竹義重 (四代当主)
佐竹義長
・ 佐竹義隆
・ 佐竹義隣
・ 佐竹親直
・ 佐竹誠
・ 佐竹貞義
・ 佐竹隆義
・ 佐竹雅昭
・ 佐竹雅昭の覇王塾
・ 佐竹雅昭の覇王塾F


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

佐竹義長 : ウィキペディア日本語版
佐竹義長[さたけ よしなが]
佐竹 義長(さたけ よしなが、明暦元年9月4日1655年10月3日) - 元文5年12月7日1741年1月23日))は、出羽岩崎藩の初代藩主。出羽久保田藩2代藩主佐竹義隆の四男として生まれた。母は佐竹義章の娘・光聚院。幼名は千代松丸、左近。初名は義知。官位は従五位下左近将監、壱岐守、兵部少輔。正室は相馬忠胤の娘(離婚)、継室は松浦鎮信の養女(松浦信忠の娘)。子は佐竹義峯(次男)、佐竹義道正室、明鏡院ら二男二女がある。
寛文8年(1668年)12月12日将軍徳川家綱御目見する。寛文10年(1670年)12月28日従五位下左近将監に叙任する。元禄3年(1690年)、兄で久保田藩主の義処より2万石を分与された。元禄14年(1701年)2月11日幕府からも正式に支藩として公認されて、秋田新田藩(後の岩崎藩)は成立した。義長は文学に不学で、仁愛の無い暗君と称されている。元文5年(1740年)12月7日、86歳で死去し、跡を婿養子の義道が継いだ。法号は指月院殿空山宜弾。墓所は東京都板橋区小豆沢の総泉寺。
子孫は、義長の官位から壱岐守家とも称された。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐竹義長」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.