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佐藤 信二(さとう しんじ、1932年(昭和7年)2月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。勲等は勲一等。衆議院議員永年在職表彰受彰。 第61、62、63代内閣総理大臣佐藤栄作の次男。 == 衆議院議員 == 山口県熊毛郡田布施町出身。東京都立大学附属高等学校を経て慶應義塾大学法学部卒業後、日本鋼管株式会社に入社。 1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区に出馬し初当選。沖縄開発庁政務次官を務める。1979年の第35回衆議院議員総選挙にて、旧山口2区へ出馬し衆議院議員に初当選(当選同期に保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之・船田元など)。 自民党では父が率いた佐藤派の流れを汲む田中派→竹下派→小渕派に属した。竹下改造内閣で運輸大臣として初入閣。1992年の東京佐川急便事件で竹下派が小沢一郎・羽田孜支持グループと小渕恵三支持グループに分裂すると、佐藤は村岡兼造、中村喜四郎、西田司、野中広務らとともに小渕恵三を支持した。第2次橋本内閣では通商産業大臣を務めた。1998年の自由民主党総裁選挙では領袖の小渕を推す派の意向に反して出馬した梶山静六を支持し派を離脱した。 1994年の公職選挙法改正(小選挙区比例代表並立制施行)以降の選挙では、1996年の第41回衆議院議員総選挙で山口2区に出馬し当選。しかし、2000年と2003年の衆院選では民主党の平岡秀夫に連敗。2003年総選挙では比例中国ブロックで復活当選した。比例名簿では当選最下位であったため、引退した宮澤喜一が終身比例名簿1位のままであれば落選になっていた。 1997年1月の記者会見で「発電、送電事業の分離はタブーとされてきたが、大いに研究すべき分野だ」と電力業界の競争政策に関して発言したことで、電力の自由化の流れの嚆矢となった。 2005年7月5日の郵政国会の衆議院本会議の郵政民営化法案の採決では欠席して造反。同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。通算当選8回(参1回)。なお、急な引退表明をする一方で後継者指名をしなかったため、自民党山口県連は早急に山口2区での候補者選定を迫られることになった。自民党の後任候補は公示9日前に福田良彦を擁立することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤信二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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