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佐藤 元彦(さとう もとひこ、1943年1月1日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 熊本高校では、の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、熊本商に敗退。高校時代はオーバースローだったが、慶應義塾大学への進学と同時にサイドスローに転向。当時の慶大は同期の渡辺泰輔をはじめ投手王国であったため、佐藤にはなかなか登板機会がなかった。しかし大学最後のシーズンである秋季リーグでは、慶大を3季ぶりの優勝に導く活躍を見せる。リーグ通算11試合登板、4勝1敗、ベストナイン1回。大学同期には渡辺の他に井石礼司がいる。大学卒業後はサッポロビールに進み、の都市対抗にエースとして出場。1回戦で大分鉄道管理局の田端謙二郎(電電九州から補強)と投げ合うが0-1で惜敗。 同年のドラフト7位で東京オリオンズに入団。から先発陣に加わり8勝。翌には自己最高の12勝をあげ、オールスターゲームにも出場する。は低迷し、先発の椅子を村田兆治に明け渡すが、には調子を取り戻し、日本シリーズでも3試合に登板し1勝をあげている。に新井昌則内野手との交換トレードで大洋ホエールズに移籍。しかし不本意な成績に終わり、同年オフに現役引退。 武器はスライダー、カーブ、チェンジアップ、威力のあるシュートだった。 6月30日の対東映フライヤーズ戦(東京スタジアム)では1回無死から3番手投手として登板し、9回まで無失点で切り抜けて勝利した。先発鈴木隆・2番手木樽正明が無失点ならば「交代完了投手の完封勝利」だったが、木樽が降板するまでに1点を失っていたのでならなかった(この記録は5月9日に阪神タイガース・上田二朗が、対大洋ホエールズ戦で達成している)。 5月3日の対東映フライヤーズ戦(東京スタジアム)の10回表には、作道烝・大下剛史・大橋穣に連続本塁打を浴びて降板。リリーフに立った佐藤政夫も続く張本勲・大杉勝男に本塁打を浴び、5者連続本塁打の日本記録を献上することとなった。 ミスタープロ野球・長嶋茂雄(巨人)とは、ロッテオリオンズ時代の巨人との日本シリーズでは佐藤の登板時に長嶋に打席が回らなかったため対戦できなかったが、ホエールズに移籍後の1972年に川崎球場での対巨人戦で実現した。しかしベンチの指示は「敬遠」であったため、佐藤はそれに従って長嶋を歩かせた。その後長嶋と対戦することはなく、佐藤の対長嶋対戦成績は1打席0打数0安打1故意四球という結果に終わってしまった。このエピソードは、約四半世紀後の朝日放送のスポーツドキュメンタリー番組『キラリ(ナビゲーター:中村雅俊)』で“たった一度の長嶋茂雄”として取り上げられ、佐藤本人も証言者として出演した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤元彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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