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佐藤康光 : ウィキペディア日本語版
佐藤康光[さとう やすみつ]

佐藤 康光(さとう やすみつ、1969年10月1日 - )は、将棋棋士。タイトル通算獲得数は、歴代7位永世棋聖の資格を保持する。棋士番号は182。田中魁秀九段門下。いわゆる「羽生世代」の一人に数えられる。2011年4月1日から日本将棋連盟棋士会長を務める。京都府綴喜郡八幡町(現・八幡市)出身。
== 経歴 ==

=== プロ入りまで ===
少年時代にあこがれていた棋士は、米長邦雄。師匠・田中の将棋教室に通うようになった頃、『米長の将棋』という本で勉強し、その独特の感覚や終盤の切れ味には大いに影響を受けているという〔2008年1月20日放送のNHK将棋講座にて、本人談。〕。また、最初に読んだ棋書は有吉道夫の自戦記『玉頭位取り戦法』であり、真っ黒でボロボロになるまで繰り返し読んだという〔佐藤康光『佐藤康光の寄せの急所 囲いの急所』日本放送出版協会、1995年11月、ISBN:4-14-016075-6、p108〕。
1981年の春、小学生将棋名人戦に6年生として出場し、NHK教育テレビ全国放送される準決勝に進出して3位となる〔その前の3回戦では、村山聖と対戦して勝っている。ちなみに、このときの準優勝者は中井広恵。また、畠山成幸(前年準優勝)は佐藤と同じく3位であった。5年生の羽生善治(翌年に優勝)も出場していた。〕。
1982年12月(中学1年の冬)、6級で関西奨励会に入会。その半年後、谷川浩司が史上最年少の21歳で名人となる。関西将棋会館の控え室で詰将棋を棋士・奨励会員数名が解けずに悩んでいたところに谷川が現れて数十秒で解き、皆を唖然とさせる。この光景を目撃した佐藤は子供心に「A級の恐ろしさ」を知ったという〔「将棋世界」1990年2月号〕。
奨励会入会後、僅か1年弱で2級に昇級。その直後、父親の転勤のため関東奨励会に移籍する。このとき、「名人候補を東京に取られた」と関西の棋士たちが嘆いたという〔別冊宝島編集部 編 『戦う将棋指し』 宝島社、1999年、166頁。〕。
ちなみに、プロの対局の記録係を務めるため中学校を頻繁に休んでいたことから、「学校やすみつ君」とからかわれていた〔先崎学著「世界は右に回る」〕。佐藤はその後國學院高校に進学し、卒業を果たしている。
奨励会二段の頃、島朗主宰の、いわゆる「島研」に、森内俊之とともに参加。二人が対局し、残った一人が記録係を務めるという、一風変わった研究会であった。
そして、17歳の頃、二段の途中から8連勝して三段へ昇段。さらに続けて13勝1敗〔佐藤が奨励会に在籍していた当時は、三段リーグの制度がなかった。〕で四段(プロ)に昇段(1987年3月25日)。合わせて21勝1敗というラストスパートでのプロ入りを果たす。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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