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佐藤 慶(さとう けい、1928年12月21日 - 2010年5月2日)は、日本の俳優、ナレーター。福島県会津若松市生まれ。本名は佐藤 慶之助。 == 来歴・人物 == 佐藤家は先祖代々会津藩士で、戊辰戦争に敗れて漆器材料の卸商を営んでいた〔佐貫百合人『役者烈々 俳優座養成所の軌跡』、三一書房、1995年、149-150頁〕。また、2.26事件に参加し刑死した渋川善助の妻絹子は叔母。 福島県立会津工業学校染織科卒業後、会津若松市役所戸籍係に勤務するかたわら、地元で結成した新劇愛好会で演劇に打ち込むが、会の発表会の日に無断欠勤をして役所を免職されたという「根っからの新劇人」ぶりが高じ上京。1952年(昭和27年)に俳優座養成所に第4期生として入団した。同期には宇津井健・佐藤允・仲代達矢・中谷一郎らがいる。なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになるが、佐藤慶も二本の岡本作品に出演している。 1955年以降、大島渚監督の一連の作品をはじめ、映画、舞台、テレビドラマで存在感のある悪役などを演じる。その無機質な風貌を生かし、屈折した性格の悪役を得意とし、社会派作品から時代劇・ヤクザ映画まで、様々な作品で総合的性格俳優として活躍する。 1965年に『鬼婆』でパナマ映画祭主演男優賞を、1971年に『儀式』『日本の悪霊』でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。1967年のテレビドラマ『白い巨塔』では、田宮二郎の野心的な雰囲気とは違った暗くねじれた個性を前面に出した財前五郎役を演じた。1980年、紀伊國屋演劇賞を受賞した。 また、低く泰然とした声でのナレーションも人気があり、1970年代から1980年代にかけて日本テレビで放送された科学ドキュメンタリー『知られざる世界』のナレーターを担当した。4時間半にわたる長尺のドキュメンタリーを劇場公開して話題になった映画『東京裁判』でも、単独でナレーターをつとめている。 1981年には『白日夢』で武智鉄二監督の演出のもと愛染恭子と本番行為を行い、一躍話題になった。晩年の代表作にはNHK連続テレビ小説『ほんまもん』、大河ドラマ『風林火山』がある。また、1980年代から1990年代中盤頃にかけては主人公の父親役での出演作も多かった。2000年以降も体調をみながら仕事を続けた。晩年も貫録のある味深い演技を見せ、「名優」と称されるほどに、演技力への評価は非常に高いものがある。2004年に衛星劇場より配給製作された短編オムニバスホラー映画『日常恐怖劇場・オモヒノタマ〜念珠 七ノ珠 ECHOES』では主演級の老人役も演じきった。 かつては月刊誌『噂の真相』を愛読しており、創刊準備号から最終号まで1号も欠かさず読みつづけたという。また、下積み時代の生計を支えてくれたガリ版への感謝を忘れず、有名になってからもガリ版用具を大切に保管していたという謙虚な一面も持ちあわせていて、後年山形市の山形謄写印刷資料館に愛用のガリ版用具並びに製作した印刷物が寄贈された。 体調面も含め、80歳を超えてからは仕事を控えるようになっていた。2010年5月2日午後4時19分、肺炎のため都内の病院で死去した〔俳優の佐藤慶さんが死去 産経新聞 2010年5月6日閲覧〕。。亡くなる前年の2009年に公開された映画、「カイジ 人生逆転ゲーム」(2008年11月収録)への出演が遺作となり、貫録のある役を最後まで演じきった。佐藤の死去の報を受けて、市川森一(脚本家)、仲代達矢(俳優)など演劇関係者が追悼のコメントを発している〔佐藤慶さんを悼む「ずっと出演してほしいと思わせる不思議な役者」 スポーツニッポン 2010年5月6日閲覧〕〔仲代達矢「兄貴のような存在 俳優人生に強い影響を与えた」 スポーツニッポン 2010年5月6日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤慶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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