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佐藤 敦之(さとう あつし、1978年5月8日 - )は福島県会津若松市出身(出生地は福島県河沼郡会津坂下町)、中国電力陸上競技部所属の男子陸上競技(長距離種目・マラソン)元選手。現・京セラ女子陸上競技部監督。身長170cm、左利き。ハーフマラソン日本記録保持者(1時間0分25秒)。 == 経歴 == 会津坂下町生まれ。小学校までは郡山市や原町市(現・南相馬市)で過ごす。 会津若松市立第四中学校、福島県立会津高等学校、早稲田大学卒業。榊枝広光(順大-日産自動車)は中学校時代の同級生である。また小川博之(国士舘大-日清食品-JALグランドサービス-八千代工業)は中学時代からのライバルであった。 中学から陸上競技部に所属し、中学2年生のとき1500mで全国優勝を果たす。ほかにジュニアオリンピックで中2(2000m)、中3(3000m)と2連覇を果たしている。〔北京へのチャレンジ AMラジオ1242 ニッポン放送〕。高校は長距離の強豪・田村高への進学を希望していたが両親の勧めにより会津高へ進学〔PIONEER OF WASEDA SPORTS 第2回 中国電力陸上競技部佐藤敦之インタビュー wasedasports.com〕。希望した進学先でなかったことなどもあり、一時期は不登校に陥った〔PIONEER OF WASEDA SPORTS 第2回 中国電力陸上競技部佐藤敦之インタビュー(2) wasedasports.com〕が2年時にインターハイ、国体5000m5位、3年時にインターハイ5000m5位などの実績を残す。 早稲田大学では1年から三大駅伝に出場するなど活躍、3年時にはびわ湖毎日マラソンで当時の学生最高記録を樹立した。4年時には主将に就任し、関東インカレ、日本インカレでも活躍したがその後オーバートレーニングに陥り駅伝シーズンを欠場。チームは箱根駅伝で10位に終わりシード権を失った。 早大卒業後は中国電力に入社。2003年には世界陸上パリ大会に出場する。 2007年7月、女子800m日本記録保持者の杉森美保(所属:ナチュリル)と入籍。 2008年8月、北京オリンピックの男子マラソン日本代表に選出されるが、その後走り込みの時期に腸炎を患い一時練習出来なくなる等、レース前の調整に失敗。同五輪マラソンへ強行出場するも、先頭集団のハイペースな展開に全く付いて行けず、レース序盤で早々脱落。一時は途中棄権も危惧されるほどペースダウンしたが、最終的には完走した選手では最下位(76位)でゴールした〔他の日本代表選手は、尾方剛が13位、大崎悟史は欠場。〕〔日本最終種目で惨敗 尾方13位、佐藤は最下位 北京五輪マラソン - 2008年8月25日付 スポニチアネックス〕。 2009年8月、世界陸上ベルリン大会の男子マラソンでは、レース中盤は14位前後だったが終盤に追い上げ、日本男子で最高順位となる6位入賞と健闘した(マラソン団体戦で日本代表は銅メダル獲得)。 2010年元旦、第54回全日本実業団対抗駅伝競走大会では4区(22.3 km)を1時間03分11秒で走り今井正人・堺晃一以下を抑え区間賞を獲得した。 2012年3月のびわ湖毎日マラソンに出走予定だったが、同年2月に痛めた左太もも裏の筋膜炎が回復せず欠場。これにより同年8月開催のロンドンオリンピック男子マラソン代表選出が消滅、北京五輪に続く二大会連続のオリンピック代表はならなかった。同年5月1日付で中国電力を休職し出生地の会津坂下町に活動拠点を移す。 2013年12月1日、福岡国際マラソンが現役最後のレースとなる。怪我が重なり練習が詰めず佐藤曰く「目標は完走」で出場、6年前の同マラソンから25分以上遅れ、2時間33分台ながらも無事ゴールを果たした〔佐藤敦之“思い出の地”で最後のレース「感謝多き競技人生だった」 - 2013年12月1日付 スポニチアネックス〕。 現役引退後の2014年2月2日、京セラ女子陸上競技部就任が報道された〔朝日新聞 2014年2月2日東京朝刊14版 27面〕。2014年4月1日で正式に監督に就任。なお、妻の美保も同時にコーチに就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤敦之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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