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佐藤春夫 : ウィキペディア日本語版
佐藤春夫[さとう はるお]

佐藤 春夫(さとう はるお、1892年明治25年)4月9日 - 1964年昭和39年)5月6日)は、近代日本詩人作家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論随筆童話戯曲評伝和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。筆名潮鳴沙塔子雅号能火野人と称した。初代新宮市名誉市民
== 経歴 ==

=== 学生時代 ===
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(は鏡水)、政代の長男として生まれる。母・政代は旧紀州藩士で御庭奉行を務めた竹田家の娘。佐藤家の家系は代々紀州の下里町で医を業とし、父の豊太郎に至って九代を数えている。父の豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもある。
1898年(明治31年)4月に新宮第一尋常小学校(丹鶴小学校)に入学。和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)在学中、佐藤潮鳴の筆名で校友会誌に「おらば籠」、1908年(明治41年)には『熊野実業新聞』に短歌6首掲載、『明星』に「風」の題で投稿し短歌が石川啄木の選に入り、和貝彦太郎主宰の「はまふゆ」の同人となり、「馬車・食堂」(短歌・詩)を発表。この頃に父は病院を一時閉鎖し、北海道十勝国中川郡で農場を経営する。『趣味』、『文庫』、『新声』、『熊野新報』に短歌や歌論を次々と発表し、1909年(明治42年)『すばる』創刊号に短歌を発表する。ここで生田長江与謝野寛石井柏亭を知り、また同盟休校事件の首謀者とみなされて無期停学を命じられた。
1910年(明治43年)卒業後、上京して生田長江に師事、与謝野寛の新詩社に入る。ここで同人の堀口大學を知り、堀口と共に旧制第一高等学校の入試に臨んだが、試験を中途で放棄し、慶應義塾大学文学部予科に入学する。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学び、また生方克三を知る。兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった『断腸亭日乗』に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていたため、和解した。
1909年(明治42年)から『スバル』『三田文学』に叙情詩傾向詩を発表し、識者の注目を集める。1911年(明治44年)1月24日、幸徳秋水らに連座して同郷の医師である大石誠之助大逆事件の被告として処刑されるが、その当時の心情を同年5月に詩「愚者の死」として『スバル』に発表し、折口信夫上田敏に評価されている。その後、無政府主義者あるいは大逆事件以後のアナキズム運動との接触を行った〔『日本文学 第22巻』 日本文学協会 1973年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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