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佐藤 行通(さとう ぎょうつう、1918年12月5日〔佐藤行通 さとう-ぎょうつう 日本人名大辞典〕 - )は、日本の僧侶、社会運動家。 日弘とも。俗名は 佐藤弘 (さとう ひろし)。 == 略歴 == *1918年 秋田県の阿仁合町(現在の北秋田市)に生まれ、幼年期を過ごす。父母は共に教育者であったが、祖父の代より前は阿仁マタギの家系。 *1924年 家族と共に兵庫県西宮市に移る。 *1931年 旧制北野中学校に席次6位で入学。 *1937年 陸軍予科士官学校53期に1500人中7番で入校。航空兵科士官候補生として航空士官学校に入校するが、練習中に負傷し操縦士の道を断念。 *1940年 航空士官学校首席卒業。恩賜の銀時計を受ける。即日陸軍航空通信学校入校。 *1942年 関東軍航空兵団第二飛行集団司令部付中尉として満州に赴任。 *1943年 通信技術を評価され内地復員、東北帝国大学員外学生、第四陸軍航空技術研究所員となる。 *1945年 終戦後、井上清純海軍大佐の勧めで日本山妙法寺、藤井日達により受戒得度。名を行通と改める。 以後、平和運動に参画し、藤井日達の側近として「世界宗教者平和会議」や「アジア仏教徒平和会議」の設立に奔走する。新東京国際空港建設を巡る三里塚闘争では、滑走路予定地に平和塔を建立して非暴力運動の先頭に立った。立川基地反対闘争、ベトナム人民支援運動にも参加〔。 原水爆禁止日本協議会の設立にも深く関わったが、運動方針を巡って日本平和委員会、日本共産党と意見対立し、ついには原水協を追放される。 更に、妙法寺の不正経理の責任を取る形で妙法寺からも離れることとなった。 現在は茨城県内に草庵を結び、世界平和のための活動と情報発信を続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤行通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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