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佐野 常羽(さの つねは、1871年(明治4)7月3日 - 1956年(昭和31)1月25日)は、日本の海軍軍人。海軍少将、伯爵。東京麹町生まれ。日本のボーイスカウトにおける指導者の訓練体系を確立した。 父は日本赤十字社の創始者である佐野常民。妻は保科正益の娘。養子の常光(つねみつ)は一条実輝公爵の子。 == 経歴 == * 海軍兵学校に入学し、1891年(明治24年)、卒業する(18期)。 * 1900年(明治33)2月、清国南部出張を命じられ、北清事変には和泉分隊長として参戦〔読売新聞1904年(明治37)3月5日号3面「佐野海軍大尉」に、「三十年には大尉に昇任し、三十二年軍令部出仕となり、官命を奉じて南清を視察し、北清事件の際には、和泉分隊長となり諸艦に転乗して功労あり」とある。〕。 * 1902年(明治35)12月26日、家督を継いで伯爵となる〔『官報』第5847号、明治35年12月27日。〕。 * 東郷平八郎のもとで砲術長をつとめ、その後、海軍高等通訳官、ドイツ大使館付武官、戦艦榛名の艦長などを歴任する。ドイツ大使館付武官であった頃に、しばしばロンドンに滞在し、本場のボーイスカウト運動を多く見聞する。 * 退役後の1922年(大正11)、栃木県佐野に「唐沢義勇少年団」を結成。 * 1924年(大正13)、第2回世界ジャンボリーに参加(団長は三島通陽)し、その後ボーイスカウト国際会議に日本代表として参加。ギルウェル指導者訓練所(ギルウェル・パーク)に日本人として初めて入所する。 * 1925年(大正14)、富士山麓山中湖畔大洞にて第1回指導者訓練所開設(のちの山中野営場、中央指導者実修所)を開設し所長に就任。これによって、日本のボーイスカウト運動における指導者の訓練体系が確立された。 * 1929年(昭和4)、第3回世界ジャンボリー派遣団の団長として大会参加。 * 1931年(昭和6)に、ロバート・ベーデン・パウエル卿より、ボーイスカウトイギリス連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈られる(日本人で本章を授与されたのは、昭和天皇と佐野の二人だけである)。 * 1954年(昭和29)、ボーイスカウト日本連盟から「長老」の称号を贈られる。 * 1955年(昭和30)、日本連盟の最高功労章である「きじ章」を贈られる。 * 1956年(昭和31)、1月25日死去。享年86。 ボーイスカウト日本連盟所属の山中野営場(山梨県南都留郡山中湖村)の玄関には佐野の胸像が置かれている。また、山中野営場には彼の名をとった「佐野広場」があり、記念碑(道心堅固の碑)が建てられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野常羽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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