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佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日本の俳優・童話作家・実業家。神奈川県横浜市、現在の保土ケ谷区出身。アクターズ・セブン所属。身長168cm。神奈川県立横浜第三中学校卒業。 ==来歴・人物== 実家は相模鉄道天王町駅近くの青果商(現在、横浜市中央卸売市場にて仲買業者の社長として自身が勤めている)。 同期生には松山善三がいる。 日本大学芸術学部在学中の1943年、劇団苦楽座に入団。1945年3月本土決戦に備える特攻隊に応召。苦楽座は巡業中の広島市で原爆投下により壊滅した〔黄門は旅ゆく2 特攻 生き残ったふたり 朝日新聞 2009年11月10日夕刊〕。戦後、劇団民藝の結成に参加し、多くの舞台に出演するが、1971年に民藝内部で対立が起こり、下條正巳・鈴木瑞穂・佐々木すみ江らと共に退団する。 NHKラジオでの『お話でてこい』では、童話の朗読役として4000回を超える放送をこなした。 役者としては、1993年からの『水戸黄門』にて3代目水戸光圀役として活躍したことで特に知られる(初代東野英治郎・2代目西村晃とは一味違い、庶民的で優しく慈悲深い泣き虫黄門様として親しまれた)。ちなみに光圀出演回数は246回、太秦の撮影所では自転車を乗り回していた。 1996年、勲四等瑞宝章を受章。 1998年に先妻・英子夫人に先立たれ、芸能活動を休止したが、2000年2月に、21歳年下の育子夫人と再婚。 長男は大学教員、次男は競輪選手の川村晃司〔「水戸黄門賞」の主役は、黄門さまの息子・川村晃司 〕。2代目助さん及び5代目光圀役の里見浩太朗(本名;佐野邦俊)は親戚。 戦時下の1943年、18歳で入団した劇団苦楽座では最年少で皆に可愛がられた。1945年、苦楽座は中国地方を慰問する移動演劇桜隊に改称。佐野は同年3月、本土決戦特攻隊員になり劇団を離れた。丸山定夫・園井恵子・仲みどりら劇団員は8月6日広島で被爆。佐野は軍隊を抜け出し20日頃東京帝国大学付属病院に仲を見舞った。仲間の消息を聞こうとしたが、仲はベッドに寝たきりで何も聞けず病室を後にした。「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と62年間の沈黙を破り2007年8月6日、東京都目黒区の五百羅漢寺で仲間への思いを初めて語り追悼した(読売新聞、2007年8月6日や東京新聞・毎日新聞でも戦争体験から反戦平和を述べている)。 また、創作童話の執筆にも取り組んで『せん爺さんの太鼓』などの著書がある(その功績を讃え、2001年に広島大学からペスタロッチ教育賞を授与された)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野浅夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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