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何姫 : ウィキペディア日本語版
昭献皇后
昭献皇后(しょうけんこうごう、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。姓は氏。孫和の妻の一人。揚州丹陽句容県(現在の江蘇省句容)の出身。父は何遂。子は孫皓。弟は何植。『三国志』においては何姫と呼称されており、「昭献皇后」は尊号である。
== 生涯 ==
何氏は騎兵隊長であった何遂の娘であった。父の仕事場を見物していたところを偶然孫権に見初められ、孫権の命令で後宮入りし、太子である孫和の妻とされたという。赤烏5年(242年)に孫皓が生まれると孫権は喜び、彭祖という名前を与えた。その後、孫和は太子を廃されて長沙に押し込まれ、建興2年(253年)には孫峻孫魯班(全公主)の讒言により新都郡へ強制移住となった上で、自害を命じられた。孫和とその正妻の張氏(張承の娘)が自害した後も生き延び、何氏は孫皓と孫和の遺児を養育した。
孫休が即位すると、孫皓が烏程侯に封じられて任国に赴いたため、何氏も同行した。元興元年(264年)に孫皓が即位すると、同年7月何氏は昭献皇后の尊号を授けられた。さらに9月には皇太后となり、以降は昇平宮に住んだ。一族も外戚として優遇された。建衡3年(271年)春正月、孫皓が妃妾など大勢を引き連れて華裡にまで進んだ際にも同行している。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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