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何宗蓮[か そうれん]
何 宗蓮(か そうれん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人。中華民国最初期に察哈爾(チャハル)都統をつとめた。晩年は起業や慈善事業に取り組んでいる。字は春江。 == 事跡 == 北洋武備学堂を卒業した後に、定武軍に所属した。日清戦争に際しては海城を数百の兵で守備し、日本軍と激戦を繰り広げている。1895年(光緒21年)、袁世凱が創設した新建陸軍に所属した。以後、左翼歩兵第2営領官、統帯、北洋常備軍左翼翼長を歴任し、1904年(光緒30年)には第1北洋教練処総弁に就任する。1906年(光緒32年)、第1協統領官兼宿衛営統領兼甘粛省河州鎮総兵に昇進した。1907年(光緒33年)、第1鎮統制となり、さらに察哈爾副都統に異動した。〔徐主編(2007)、671頁。〕〔来ほか(2000)、1133頁。〕 1912年(民国元年)、察哈爾都統兼陸軍第1師師長に昇進した。1914年(民国3年)、将軍位を与えられ、引き続き察哈爾を統治する。民国4年(1915年)8月、大総統府侍従武官に異動したが、袁世凱が皇帝即位を画策すると何は引退して帰郷した。〔外務省情報部編(1928)、454頁。〕同年中に済南で華興造紙廠や豊年面粉廠を創設している。〔山東省情網。〕1918年(民国7年)、弼威将軍の位を授与された。〔〔 1921年(民国10年)、山東省で大干ばつが発生し、50県以上が罹災した。このときに何は地元人士に呼びかけて山東省賑災公会(何が会長に就任)、紅十字会済南分会、災民救済会の設立準備を進めた。これにより義捐金数百万元が集まり、数十万人の民衆が救済されたという。〔1928年(民国17年)の済南事件勃発後に済南市治安維持会会長を務めた。〔1931年(民国20年)、山東省歴城県(現在の済南市歴城区)で病没。享年68。〔〔
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