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何豊林[か ほうりん]
何 豊林(か ほうりん)は、清末、中華民国の軍人。北京政府、安徽派、奉天派に属した。字は茂如。 == 事跡 == 北洋武備学堂卒業後、新建陸軍に加入し、清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した。1912年(民国元年)5月、第4鎮第8協協統に昇進する。翌年、第4師第7旅旅長となった。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝に即位した際には、三等男爵に封じられた。袁世凱死後は、安徽派の盧永祥に属する。1917年(民国6年)1月、浙江省寧台鎮守使となる。1920年(民国9年)、淞滬護軍使兼第6混成旅旅長に就任する。1924年(民国13年)、江浙戦争では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し、大連に逃れた。〔徐主編(2007)、682頁。〕〔来ほか(2000)、1133頁。〕 その後、何豊林は奉天派に加わる。張作霖が大元帥となると、軍事総長に抜擢され、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお1927年(民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として、李大釗に絞首刑を宣告している。北京政府が崩壊した後には、何も辞任して東北に逃れた。1931年(民国20年)、東北辺防軍司令長官公署首席参議に任じられている。〔〔1935年(民国24年)、死去。享年63。翌年、陸軍中将銜を追贈された。〔山東省情網による。なお、徐主編(2007)、682頁と来ほか(2000)、1133頁によると、何豊林は1938年(民国27年)に華北政務委員会武官長の地位に就いたとされる。しかし、この当時に華北政務委員会は存在していないため(汪兆銘政権の機関であり、1940年3月に成立)、この記述は何らかの誤りと考えられる。〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「何豊林」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 He Fenglin 」があります。
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