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余 嘉錫(よ かしゃく)は、清末から中華民国の歴史学者、文献学者である。字は季予、号は狷庵。 == 経歴 == 父の余嵩慶は河南省商丘県出身、1876年(光緒2年)に進士に及第した。 嘉錫は、幼年より五経や四史(『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』)『楚辞』・『文選』等の勉学に励み、14歳の時には『孔子弟子年表』を作り、15歳で『』に注した。16歳の時、張之洞著『書目答問』を読み、同著の『輶軒語』を読むに及んで、『四庫全書総目提要』を知り、翌年、父によって「四庫提要」を買い与えられた。その後、50年余にわたり、本書の考証を継続し、『四庫提要弁証』を撰した。 1901年(光緒27年)に挙人に選ばれた。その際の考査官は、『新元史』の撰者である柯劭忞であった。一時、北京に上るも、父の喪に服するため、帰郷して故郷の中学・師範学堂で教えた。 辛亥革命以後、自ら狷庵と号した。後に再度上京し、柯劭忞の紹介によって、清史館総裁趙爾巽教授のもとで『清史稿』を校閲した。1927年には、夫人の陳福彩が死没し、嘉錫自ら墓表を作り、二度と再婚しなかった。 1931年、創設後まだ間のない輔仁大学に教授(国文系主任)として招聘され、陳垣と邂逅した。 1942年冬、輔仁大学の文学院院長に就任した。1948年には中央研究院の院士に選ばれた。が、翌1949年、その文章が「封建的」であると政府から非難を受け、解任された。1952年、脳溢血で倒れ、1955年に没した。北京市阜城門外の西黄村福田公墓に葬られた。 嘉錫は、自著に署名する時、「武陵余嘉錫」と記している。これは、出生地である常徳県の古地名を用いたものである。また、張起鈞によれば、嘉錫が人前で笑うことは、黄河が澄む程に稀である、と例えられたほど、狷介な人柄であり、阿諛追従を極度に嫌悪し、時局に迎合するのを好まなかったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「余嘉錫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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