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義農作兵衛(ぎのう さくべえ、貞享5年2月10日(1688年3月11日) - 享保17年9月23日(1732年11月10日))は江戸時代の伊予国松山藩筒井村(現在の愛媛県松前町)の農民。父は作平。母はツル。妻はタマ。長男の作市と長女のカメ、次女某という子がいた。 作兵衛は、貧しい農家に生まれた。子どものころから働き者で朝早くから夜遅くまで働いた。作兵衛は、「どんなやせた土地でも手入れをすれば、必ずよい田畑となって、多くの農作物を収穫することができるはずだ」と、農作業に精を出したので、百姓の手本とまで言われるようになった。 しかし、享保17年(1732年)、松山藩は享保の大飢饉で深刻な飢饉に見まわれた。5月から長雨が続き洪水が起こったことに加えて、6月になるとウンカという害虫が大発生し、米の収穫はほとんどなかった。農民たちは、わずかに蓄えていた雑穀などを食べて飢えをしのいでいたが、それさえもなくなると、飢え死にする者が多数出てきた。作兵衛方では、前年、病気で妻が、そして、この飢饉で父親と息子を相次いで亡くした。作兵衛は衰弱するなかで、畑を耕そうとするが、遂に倒れてしまう。 家に運ばれ、寝込んでいる作兵衛の枕元に麦俵があることに気づいた近所の人が「命には代えれないので、その麦種を食べてはどうか」と勧めたが、作兵衛は聞かず、「農は国の基で、種は農の本です。一粒の種子が来年には、百粒にも千粒にもなります。わずかの日、生きる自分が食してしまって、どうして来年の種子ができるでしょうか。自分の身を犠牲して多くの人の命を救うことができれば、私は本望です」と述べ、麦種を一粒も食することなく飢え死にしてしまった。さらに、翌月に長女が亡くなり、翌々年に次女が亡くなったことで、一家全員が亡くなった。 村人たちは、作兵衛の百姓としての心構えに心を打たれ、作兵衛が残した麦種を一粒ずつ大切にまいて、次の年を乗り切ったという。また、この話を聞いた松山藩は、年貢を軽くしたり、免除した。 作兵衛が亡くなった後、45年を経た安永6年(1777年)、松山藩8代藩主の松平定静は、作兵衛の功績を後世に伝えるために「義農」と称え、彼のために碑を建立した。明治14年(1881年)には義農神社が建立された。明治45年(1912年)には頌徳碑建立と義農精神発揚のため組織された「義農会」により、義農作兵衛頌徳碑が建立された。見返り石には、元内務大臣、平田東助の詩が刻まれている。 「農」という自分の生業に誠実であろうとした作兵衛は、麦種を遺すことで、多くの人々の命を救った。作兵衛の尊い思いは、「義農精神」として今日も脈々と受け継がれている。「天を敬する者は天より恵まる/地に親しむ者は地より与えられる/人を愛する者は人に報ひらる」と刻された作兵衛の墓標がある義農神社では、毎年4月23日に義農祭が行われるなど、地域の人々に親しまれている。昭和56年(1981年)、松前小学校は「義農太鼓」を発足。豊かでたくましい松前人をめざし、社会のため、人のために尽くすという「義農精神」を太鼓の心として小学校児童の手から手へと継承している。 ==参考文献== *愛媛県教育委員会 『17義農作兵衛』 *松前町誌編集委員会 『松前町誌』 *愛媛県教育会 『愛媛子どものための伝記 第四巻 義農作兵衛』 *地域活性化センター 『伝えたいふるさとの百話』 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「作兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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