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便利堂[べんりどう]
株式会社便利堂(べんりどう)は、京都府京都市中京区新町通竹屋町下ル弁財天町にある老舗の美術印刷・出版会社。古美術の複製、美術書の図版印刷や美術館・博物館で販売される展示図録、美術品のポストカード制作で有名。京都・三条富小路と東京・神田神保町に美術はがきを展示・販売する「京都便利堂」も持つ。19世紀に生まれたコロタイプ印刷を現在も引き継ぎ、その多色化に成功した。 == 歴史 == 「便利堂書店」とも称し、明治20年(1887)に中村弥二郎(のちに中村有楽とも名乗る)によって創業、貸本売本を始めた。弥二郎の父親の弥作(先代・弥左衛門)は京都御所にも納品する京都の錫職人で、茶器・酒器などを製造していたが、明治維新後の東京奠都により家業が衰退〔『没後50年 北大路魯山人展』カタログ、中ノ堂一信「北大路魯山人 その芸術家としての歩み」〕、中学を病気(トラホーム)で中退していた次男の弥二郎が14歳で「便利堂」を始めた〔第三部『山城』の周辺――人間の連鎖(3)エスペランティスト中村日出男 遺稿集『流れやまぬ小川のように』より(上) 「南山城の光芒 新聞『山城』の25年」、本庄豊(京都歴史教育者協議会事務局長)、洛南タイムス 〕〔便利堂のあゆみ 、便利堂HP〕。翌年、出版業も始め、成功した(神戸に同名の日本初のキリスト教専門書店があり、同店との関連も推測される)。 キリスト教思想家として知られる内村鑑三は、明治24年不敬事件で東京を追われ各地を流遇した後、明治28年から一年ほどを中村家の離れで暮らし、弥二郎から毎月20円の援助を受けた。この縁から明治30年に代表作『後世への最大の遺物』が便利堂から出版された〔〔「後世への最大遺物」内村鑑三 青空文庫〕。弥二郎は、明治34年(1901)に便利堂を長兄の弥左衛門に譲り上京、明治36年頃に出版社「有楽社」を設立して、さらに個性的な出版を続けた。明治35年に便利堂最初の絵はがき「帰雁来燕」を発売、、絵はがき事業にいち早く乗り出した。以後絵はがきブームのなかで鹿子木孟郎「時事漫画 非美術画葉書」、竹内栖鳳ほか「舞姿」、上村松園「浪さん」などを制作販売した〔。明治38年(1905年)にはコロタイプ印刷工場を新設し、社寺や博物館において古美術を撮影し図録や絵はがきを受注制作を始める。以後、便利堂の経営は三男の田中伝三郎(田中家に養子に出た)、四男の竹四郎が順次引き継いでいく。 大正15年(1926)に宮内庁図書寮本『日本書紀』の印刷を手掛け、以後複製事業を始める。3代目伝三郎は昭和2年(1927年)には原色版印刷工場を新設しカラー印刷も可能となる。ここにコロタイプと原色版とによる「美術印刷の便利堂」という基礎が確立され、貴重本の複製本や美術書、展覧会カタログなどを多く手掛けるようになる。4代目竹四郎は、北大路魯山人と共同経営していた「星岡茶寮」を背景に、より大きく便利堂の事業を発展させた。中でも昭和10年(1935)の法隆寺金堂壁画原寸大撮影はその後の文化財保存において大変意義のある仕事であった。昭和11年(1939)に株式会社化。戦前より大阪市立美術館に美術絵はがきなどを販売する常設店設置を許可されたのを手始めに、昭和15年(1940)東京帝室博物館(現東京国立博物館)など各地の美術館・博物館に同様の売店を設置。その後も国宝をはじめ、貴重な文化財の撮影・印刷・出版などを行なう老舗企業として現在に至る〔。 平成15年(2003)には京都御幸町三条下ルにアンテナショップ「美術はがきギャラリー 京都 便利堂」を開店、翌年には明治期に店舗を構えていたゆかりの三条富小路に移転。続いて東京・神保町の岩波書店アネックスビルに東京店もオープンした〔便利堂HP 〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「便利堂」の詳細全文を読む
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