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保倉幸恵[やすくら さちえ]
保倉 幸恵(やすくら さちえ、1953年4月5日 - 1975年7月8日)は、日本の元モデル、女優。 ==来歴・人物== 劇団若草の出身。幼い頃から舞台女優として活躍しており、1960年代から1970年代にかけて「週刊マーガレット」、「女学生の友」、「少女フレンド」などの少女雑誌に少女モデルとして頻繁に登場していたほか、「週刊朝日」でも1970年1月2日号から1971年12月31日号までカバーガールを務めた。その後、「週刊朝日」には、「幸恵のミニ・アドバイス」という買い物情報を織り交ぜたエッセイを不定期連載し、1975年3月まで続いた。若草時代の同期生に女優の桃井かおりがいる。少女を中心に高い人気を得るが、その後モデル業を引退した。 1971年3月に玉川学園高等部を卒業、ジョン・レノンの大ファンで高校卒業時のレポートのテーマはジョン・レノンだったと言う〔評論家の川本三郎は自身の著書『マイ・バック・ページ』のコラム「幸福に恵まれた女の子の死」で保倉の生い立ちや日常、最期について触れており、「玉川学園高校を卒業するときに提出した彼女のレポートのテーマはジョン・レノンだったという。あのジョン・レノンの無惨な死を知らずにすんだことだけは彼女にとって唯一の幸福かもしれない」と記している。また、川本は週刊朝日の記者時代に仕事を通じて保倉と親しくなり、生前はよく一緒に映画などに行っていたと言う。〕。 映像メディアへの出演はモデル時代だった頃は1968年放送の『竜馬がゆく』や1971年放送の『天下御免』に出演。その後、モデル廃業後の1974年11月に芸能界に女優として復帰し、同年11月20日から放送が開始されたNHKの銀河テレビ小説『黄色い涙』で本格的な女優デビューを果たす。 その後、1975年2月~3月にNETテレビで放送された『鏡の中の女』に出演して仕事を順調にこなしていたものの、私生活では1974年12月頃に母親が重病を患ったことがきっかけとなってノイローゼを発症し、1975年2月頃より通院のために芸能活動を一時休止。活動休止以降もドラマへの出演依頼は多かったが、精神的に情緒不安定に陥っていたため『鏡の中の女』に出演した後はドラマの出演を全て断るようになり、徐々にメディアに姿を見せなくなる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保倉幸恵」の詳細全文を読む
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