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保元の乱[ほうげんのらん]
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。 == 背景 ==
=== 近衛天皇即位 === 永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇は藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった〔『古事談』には父子の対立の原因として、崇徳天皇が白河法皇の子であり、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。この逸話について史実とする説(角田文衛)と風説に過ぎないとして否定する説(美川圭・河内祥輔)がある。また、鳥羽法皇と崇徳天皇の政治的対立の存在を指摘する研究(元木泰雄・安原功・下郡剛・佐伯智広ら)もある。〕。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流の勢力は後退した。中御門流や村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保元の乱」の詳細全文を読む
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