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保岡 興治(やすおか おきはる、1939年5月11日 - )は、日本の政治家、弁護士。自由民主党所属の衆議院議員(13期)、衆議院憲法審査会長。元法務大臣(第69代、第81代)。司法の畑を歩き続けてきた法務族議員のひとり。 == 来歴・人物 == 現在の東京都千代田区に生まれた(中学の途中までは鹿児島市内で育つ)。父は衆議院議員の保岡武久。鹿児島大学教育学部附属中学校から転校して千代田区立麹町中学校、東京都立日比谷高等学校卒業。1964年に中央大学法学部を卒業する。同年10月、24歳で司法試験合格(中大法学部の同窓で司法修習19期同期生に三瀬顕)。1967年に判事補に任官し、鹿児島地方裁判所に裁判官として赴任するが、翌1968年に退官。選挙後に弁護士登録。 1969年の第32回衆議院議員総選挙で父・武久が落選し引退を決めたため、総選挙に立候補することを決め、仲人の橋本登美三郎の秘書の肩書きを得る。1972年の第33回衆議院議員総選挙に奄美群島区から無所属で立候補し、初当選。当選後、自民党に追加公認され田中派に所属する。1976年にロッキード事件で田中角栄が逮捕されると、保岡は弁護士として田中弁護団の一員に加わった。 大平正芳内閣の国土政務次官、鈴木善幸内閣の大蔵政務次官や衆議院建設委員長などを歴任。田中派の分裂にあっては、当初小沢一郎らから創政会に勧誘されるが、不参加。竹下登率いる経世会ではなく、同郷の二階堂進のグループに参加した。 1990年、第39回衆議院議員総選挙で、無所属の特定医療法人徳洲会理事長・徳田虎雄に敗れ、落選。選挙区の旧奄美群島区は、中選挙区制の時代に於いて、唯一の1人区であったが、通称「保徳戦争」と呼ばれ、死人が出るとまで言われるほどの汚い選挙戦が行われる場所として知られていた。この時の選挙で二階堂グループは所属議員の落選・引退で大きく議席を減らして消滅、保岡は落選後に田中派の流れを汲む経世会へ移籍し、自民党政治改革本部の顧問として選挙制度改革に関与することになる。 1993年に行われた第40回衆議院議員総選挙に奄美群島区と統合された旧鹿児島1区から立候補し、当選。国政に復帰した。当選後は小渕派に所属するが、1994年の羽田孜首相後の首班指名選挙では、自民党が推す日本社会党委員長の村山富市ではなく、元首相の海部俊樹に投票し、海部に従い離党。 海部を代表とする院内会派・自由改革連合を経て、1994年12月の新進党結成に参加したが、翌1995年に新進党を離党し、自民党に復党する。1998年に山崎派の結成に参加。憲法改正が政治課題として浮上し、衆議院に「憲法調査会」が設置されると保岡は同調査会の幹事に就任。 2000年、第2次森内閣に法務大臣として初入閣(政務次官は公明党の上田勇)。法務大臣在任中に3人の死刑囚に対して死刑執行を命令した。加藤の乱では、閣僚として身動きの取れない中で、自身と当選同期の山崎拓・加藤紘一の行動を支持することを模索する。加藤らが本会議に出席して森内閣内閣不信任決議案に賛成した場合、加藤派の運輸大臣・森田一と共に、その場で閣僚の辞表を首相の森喜朗に手渡して不信任決議案に賛成票を投じるため、辞表を胸に忍ばせて不信任決議案採決に臨んだ。しかし、採決前に加藤らが折れてしまったため、不信任決議案には反対票を投じた。 2001年、第1次小泉内閣で自民党国家戦略本部が設置されると、同本部事務総長に就任、2004年には自民党憲法調査会会長に就任する。同年11月「憲法改正大綱」の原案を党内に提示。ところが、この大綱における衆議院議員の優越性(閣僚就任を衆議院議員に限定)などを巡って党内の参議院議員を中心に反発が相次ぎ、撤回に追い込まれた。これに関連して、2007年4月16日の参議院本会議における国民投票法案の質疑で「ゼロから議論を始めるのではなく、衆議院での審議を踏まえ足りない部分を集中的に補っていただきたい」と発言したことに対して与野党を問わず反発が相次ぐなど党内の参議院議員との関係悪化が依然として尾を引いている。 2005年7月の郵政国会では郵政法案に賛成票を投じ、続く9月11日の第44回衆議院議員総選挙で当選するが、郵政民営化法案の賛否をめぐる党組織内混乱の責任を取って、同年12月に自民党鹿児島県支部連合会会長職を辞した(後任は南野知惠子)。 2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙には公明党の推薦を受けて出馬した〔比例貢献が基準?公明が自民92候補を推薦(2009年7月30日20時25分 読売新聞〕が、過去4度比例復活に退けてきた民主党の川内博史に敗れ、比例復活も出来ずに落選した。 2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で当選、国政へ復帰した。2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で13選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保岡興治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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