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保科正貞[ほしな まささだ]
保科 正貞(ほしな まささだ)は、上総飯野藩の初代藩主。父は保科正直、母は徳川家康の異父妹多劫姫。保科正光の異母弟、松平忠頼らの異父弟に当たる。 == 生涯 == 天正16年(1588年)5月21日、保科正直の三男として生まれる。異母兄の正光には実子が無かったため、伯父徳川家康の命で文禄3年(1594年)に養子となり、保科氏の後継者とされた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では本多忠朝に属して出陣し、体に槍や鉄砲傷を4箇所も負う重傷を負ったが、武功を挙げた。 しかし元和3年(1617年)、徳川秀忠の実子(落胤)である保科正之が正光の養子となったため、廃嫡された。元和8年(1622年)には保科氏家中から逐電、諸国を放浪した後、母方の叔父である伊勢桑名藩主・松平定勝(久松俊勝の三男)のもとに身を寄せた。寛永6年(1629年)に幕臣となり、3000石を与えられ旗本となった。 その後、大坂城や二条城の在番を務め順調に功績を重ねた。慶安元年(1648年)6月26日、当時7000石を領していた正貞は大坂定番となり、摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩が立藩した。この順調な昇進には、伯父が徳川家康であること、保科正之が正式に秀忠の子と認められたことにより、将来的には松平姓を名乗る可能性が出てきたため(正之自身は辞退したが、子孫は会津松平氏となる)、正之に代わって正貞に保科氏正統を継承させるため、第3代将軍・徳川家光(正之の異母兄)の配慮があったのではないか、などとする説がある。のちに正之は正貞に対し、自身が所有していた保科家代々伝来の文物の返還(譲渡)を行っている。 寛文元年(1661年)11月1日に江戸で死去した。享年74。跡を子の正景が継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保科正貞」の詳細全文を読む
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