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信夫 恕軒(しのぶ じょけん、天保6年5月5日(1835年5月31日) - 明治43年(1910年)12月11日)は日本の漢学者。東京大学講師。名は粲(あきら)〔『鳥取県大百科事典』407頁〕、字は文則。号は恕軒、天倪(てんげい)。 国際法学者の信夫淳平の父。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞専務)、信夫清三郎(政治学者、名古屋大名誉教授)の祖父。 ==経歴== 鳥取藩医・信夫正淳の子〔。江戸芝金杉(現東京都港区)の藩邸に生まれる〔。信夫家は代々因州鳥取池田藩の侍医だった〔『新聞人 信夫韓一郎』6頁〕。兄尚貞〔自撰碑文に「雁行なし」とあって兄弟はないとされているが、漢学者伝記集成には尚貞の弟となっていて詳かでない(『因伯杏林碑誌集釈』213頁)〕は藩医として五人扶持三十俵をうけていた〔森納著『因伯の医師たち』 361頁〕。 二歳のときに父を亡くす〔。家庭生活には恵まれず、衣食も欠乏するほどであったが、幼少のころから学問を好み作文に長じ、飢えや寒さにひるむことなく学業にはげんだ〔。海保漁村・芳野金陵・大槻磐渓に就いて経史、文辞を修めた〔。 医術を誰に学んだかわからないが、学成って初め下野の真岡(栃木県真岡市)に流寓し、北総を経て平塚村(茨城県結城郡)に寄寓しており、その頃が恕軒の三十才前後だと言われている〔。 明治になって東京の江東本所(現墨田区)で奇文欣賞堂という塾を開いて、漢学を教えた〔。 東京大学より招かれて講師となる。その後、三重県立中学校教官、和歌山県の中学校教官を経て東京に戻り、小石川武島町(現文京区)に住んだ〔。明治43年(1910年)12月11日、中風のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁〕。東京・谷中墓地に葬られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「信夫恕軒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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