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信念の勝利[しんねんのしょうり]
『信念の勝利 (しんねんのしょうり、 )』は、レニ・リーフェンシュタール監督によるナチスのプロパガンダ映画で、1933年9月1日から3日にかけてニュルンベルクで開催された国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の第5回党大会の模様を捉えたものである。これは、ナチズムによる政権獲得後、最初の党大会であり、特別な趣向が凝らされていた。このため、後に「勝利の党大会 ()」と称されることになった。 この映画は、1933年12月1日に、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォーで封切られた。しかし、1934年6月30日にエルンスト・レームらが粛清された長いナイフの夜以降、レームがアドルフ・ヒトラーと並び立つ姿が映されていた『信念の勝利』は、上映されなくなった。その後この映画は、失われたものと考えられていたが、1986年にコピープリントが発見された。60分にまとめられたこの作品は、リーフェンシュタールが16,000メートルものフィルムから編集したものである。リーフェンシュタールによるナチ党大会の記録映画3部作の最初の作品である。 == 監督レニ・リーフェンシュタール == 後に『意志の勝利』や『』を監督したレニ・リーフェンシュタールは、1933年の党大会の映画の制作を、ヒトラー自身から直接依頼された。ヒトラーは、リーフェンシュタールの芸術的才能を気に入っていた。党大会の記録映画『信念の勝利』は、単に出来事を伝えるだけの作品ではなく、観る者の感情に訴えかけるプロパガンダとなっている。この、ルポルタージュ映画として制作されたプロパガンダ映画には、情報はより乏しくしか盛り込まれていないが、観る者に示唆を与え、印象を刻むものであり、それはヒトラーとリーフェンシュタールがほぼ同じく目指すところであった。 リーフェンシュタールへの打診は、1933年5月17日に、ヒトラー政権の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを通して行なわれた。ゲッベルスの日記には「午後。レニ・リーフェンシュタール。彼女の計画を説明される。こちらからはヒトラーの映画を撮ることを提案。彼女は喜んでいた。」と記されている。しかも、ヒトラーは、リーフェンシュタールに強い印象を受けていた。しかし、彼女にはドキュメンタリー映画の経験はなく、ナチス党員でもなかったことから、この計画は、党内から反発を受けることになった。この時点で、リーフェンシュタールと、それまでナチス党大会の映画を撮り続けてきたアルノルト・レーター (Arnold Raether) との間で衝突が大きくなりつつあった。党の意向は、両者を協力させようとしたが、それは叶わず、ふたりの監督の権力闘争となり、芸術的才能の優るリーフェンシュタールは独断で事を進めた。完成段階のバージョンからはレーターの名は完全に排除された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「信念の勝利」の詳細全文を読む
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