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信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日 - )は、日本の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。元サッカー日本代表。中央大学文学部国文科卒業。JSL時代の登録名は信藤 克義(しんとう かつよし)で、Jリーグ後は信藤 健仁と登録されている。 ==来歴・人物== 広島のサッカー無名校である広島県立安古市高等学校(2期生)、中央大学を卒業後の1983年、今西和男総監督と二村昭雄監督に誘われ日本サッカーリーグ1部所属のマツダSC(現 サンフレッチェ広島)に入団〔入団同期に小林伸二、木村孝洋、今川正浩、上原洋史、山田隆(山田直輝の実父)ら。〕。その年、チームは最下位となりチームは2部転落してしまう。 翌年ハンス・オフトおよびディド・ハーフナーがコーチに招聘され、双方からプロとして大きな影響を受けた〔フィジカルトレーニングは、かつて経験したことのないほどの量と厳しさだったと言う。また、ハーフナーは24時間頭の中はサッカーだけだったと言う。〕。1985-86年シーズン、チームは再び1部復帰。 そこでの活躍を受けて1987年、石井義信監督下で日本代表に初選出される。翌1988年、横山兼三監督就任と同時にレギュラーに定着。若い井原正巳や堀池巧らと共にディフェンスラインを形成し、1989年のワールドカップイタリア大会アジア予選を戦った。また同年6月のインドネシア戦ではゴールも記録、翌1990年のアジア競技大会北京大会では主将も務めた。 また、所属チームでは松田浩と共にセンターバックとして活躍。1986年、サッカー界全体の流れから今西にプロ契約を直談判し、マツダのプロ契約第1号となる〔ちなみに同期の今川も同年にプロ契約している。〕。1988年にはチームの天皇杯決勝進出に貢献した。 しかし1987-1988年シーズン、マツダは再び2部転落。1部への移籍を希望〔英語が堪能な夫人は当時マツダ本社に勤めるキャリアウーマンで、その仕事も犠牲にしなければならなかった。〕 し、1990年三菱自動車(現 浦和レッドダイヤモンズ)に移籍。斉藤和夫監督下で守備の要として活躍したが、2年連続下位に沈み、1992年のナビスコ杯直前、チームがトリビソンノを獲得しレギュラーを剥奪された。 1993年、フジタSC(現 湘南ベルマーレ)球団部長だった石井義信と古前田充監督に誘われ、Jリーグ入りを目指すフジタへ移籍。ベルマーレ平塚誕生後の若いチームを引っ張り、1994年昇格後のNICOSシリーズ(セカンドステージ)2位、天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ優勝に貢献した。1995年、35歳で引退。 翌1996年からベルマーレ平塚サッカー普及コーチ、1997年からベルマーレ平塚ヘッドコーチ。1996年立ち上げられた「Jリーグ選手協会」にも顧問として尽力した。 2001年、代表時代から師弟関係にあった奥寺康彦に誘われ横浜FC監督就任。サッカーファンを仰天させた2-4-4の超々攻撃的システムを掲げ戦う。明確な戦術を提示し積極的に若手を起用、神野卓哉をくさびとする波状攻撃を仕掛け2年間を戦うも、相手チームの徹底したカウンター攻撃に沈み、2002年はJ2最下位という結果に終わり解任された。 また現役引退後からテレビ(WOWOW他)の解説、新聞、サッカー雑誌評論などでも活躍。2006年から中央大学サッカー部のヘッドコーチも務めた。 2008年12月より、浦和レッドダイヤモンズのチームダイレクターに就任。統括責任者としてトップチームの編成等を行うも、2009年途中に、補強失敗による、チームの成績不振によって、一部サポーターから自宅襲撃に合い、体調不良を訴え、精密検査を受診したところ甲状腺の機能に障害が認められ、治療が必要と診断、11月29日に体調不良で休養に入ることを発表した。その後、12月25日にチームダイレクター退任が発表された。 「Talk on Together 2010」内で、「信藤健仁さんの健康状態はどうなのか」という一般からの質問に対し橋本光夫社長からは「健康状態は回復しつつあるが時間がかかる」とのコメント。また信藤と会談があったことが伝えられ、信藤からのコメントが発表され「謝罪も無くシーズン中にチームを離れることになって申し訳ない、出来れば回復したらここに来て謝罪したい」と言っているが2012年現在も叶ってはいない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「信藤健仁」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Katsuyoshi Shinto 」があります。 スポンサード リンク
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