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信貴山城の戦い : ウィキペディア日本語版
信貴山城の戦い[しぎさんじょうのたたかい]

信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、天正5年(1577年10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。
== 開戦までの経緯 ==

松永久秀は三好長慶の没後は甥の三好義継を擁立し、三好三人衆三好氏の実権を巡って争ったが、織田信長が上洛するとこれに臣従し、畿内における三人衆との抗争を優位に進め、自身は大和の支配を引き続き任されていた。ところが、室町幕府15代将軍足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると義継と共に信長包囲網に加わり、摂津河内で猛威を振るった。結局この動きは信長に抑えられ義昭は追放、義継は自刃に追い込まれ、久秀は許されたものの、大和の支配権を信長の腹心である塙直政に奪われてしまう。
その直政は天正4年(1576年)5月3日、石山合戦で指揮をとるも大敗し討ち取られてしまった。久秀にとって次の守護が誰に決まるのか気になっていたが、信長は久秀の宿敵筒井順慶を守護にすえた。以前の信貴山城の戦い東大寺大仏殿の戦いでは三好三人衆と共々対戦した相手である。信長の上洛後は両者は同格であったが、守護となったことで立場が変化した。信長としてみれば、久秀は和睦したとはいえ一度裏切っており順慶の守護は当然のことであったが、久秀にとっては当然不服ある措置であり、直後の謀反の大きな原因と考えられている。また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点であった多聞山城を破却するなど、松永氏の勢力の削減を匂わせる行動に出たことも、久秀の政治的な危機感をますます強め、謀反へ向かわせる一因となったと思われる。
翌天正5年(1577年)8月17日、石山本願寺攻めで詰めていた天王寺砦を焼き払い、息子の松永久通を引き連れ信貴山城に立て篭もった。この時『和州諸将軍伝』には「騎馬三百余其勢八千余人」とかなりの軍勢だったと思われている。「城名人」、「近世式城郭建築の祖」と呼ばれている久秀は、翌日より信貴山城の補強工事を開始している。
久秀は2つの目算があったと思われている。1つは石山本願寺に立て篭もる顕如、1つは上洛を目指す上杉謙信である。

画像:Kennyo.jpg|顕如画像
画像:Uesugi Kenshin2.jpg|上杉謙信像
画像:Matsunaga Hisahide.jpg|松永久秀像

顕如軍は先の合戦で塙直政を討ち取り、第一次木津川口の戦い毛利氏から武器、食糧も補給し軍事力はいまだ強大、上杉軍は2万の大軍を率いて上洛を目指し、顕如の命により加賀一向一揆衆はゲリラ戦法で柴田勝家軍の行く手を妨害し、上杉軍を側面から援助している。久秀が単独で信長を倒すことは難しいが、三者はなんらかの密約、繋がりがあった可能性を『戦国合戦大事典』は指摘している。

信長はこの時安土城におり謀反に驚いたのか、老功である久秀を惜しんだのか、堺の代官松井友閑を使者にたて信貴山城へ向かわせた。この時の様子は『織田軍記』によると、

と記載されている。
1度ならず2度まで裏切った久秀に対して異例の処置であったが、久秀は信長の誠意ある説得にも拒絶した。
これに憤慨した信長は同年9月後半ごろより筒井順慶、明智光秀細川藤孝を出陣させ、法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍とした。同年10月1日が織田軍は信貴山城の支城となっていた片岡城を約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、森秀光(正友)らが率いる約1千兵で防御した。この時の戦いの状況を『多聞院日記』では、

と記載されており、筒井隊にもかなりに戦死者が出たようだが、松永軍の有力武将である海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城してしまう。
この時信長に朗報が届く。同年9月23日手取川の戦いで大勝利した上杉謙信であったが七尾城から動こうとせず進軍が止まった、との報告が同年10月3日に柴田勝家から直接安土城に入った。謙信がなぜ進軍を止めたのか諸説あるが、豪雪を恐れたのではないか、北条氏政が関東へ出軍し本国防衛のため等が言われている。信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠佐久間信盛羽柴秀吉丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込んだ。この時の織田信長軍の総数は4万兵と言われている。一方、前回は武田信玄の死亡によって謀反は成功せず、今回も上杉謙信が動かなかったことにより、はしごを外れた格好になった久秀は片岡城が落城した事と伴って窮地におちいる事になる。
翌10月4日、どちらが放った火なのかはよく解らないが、多聞日記によると「信貴山ヒサ門堂燃え云々」と記載されており、現在の朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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