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倉敷町(くらしきちょう)は、かつて岡山県窪屋郡・都窪郡にあった町・自治体である。 かつて江戸時代に港町・徳川幕府領倉敷代官所の陣屋町として栄えた備中国窪屋郡倉敷村(くらしきそん)が町制施行したものである。 == 概要 == 現在の岡山県倉敷市の中心市街地に概ね該当する区域に加え、現在の同市向山や新田を含む範囲を管轄していた。 前身となる倉敷村は、古くは吉備の穴海の西部にあたる阿知の海と呼ばれる海域にあった現在加須山から続く丘陵となっている島嶼にあった港町であった。早い時期より海洋交通の拠点となり、加子浦に指定されている。文禄・慶長の役には加子役銀を上納、近世初頭の島原の乱では浦手御用をつとめたという記録もある〔下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』(1981年)平凡社〕。 中世末期、宇喜多秀家が家臣の岡利勝に命じ、阿知の海を干拓したことにより陸続きとなり、倉敷村は運河における河港となる。近世に干拓が引き続き行われ、周囲一帯は平野となり、運河は汐入川となり、倉敷村はその最上流となる(現在の倉敷川)〔。 近世初頭には備中松山の外港として、物資の集散拠点として繁栄。また出張陣屋も建てられ、陣屋町としても発展する。その後、幾度の領地変遷を経て天領(幕府直轄地)となり、延享3年に倉敷代官所が設置された〔。 明治になると、倉敷県の管轄となり、県庁所在地となる。その後、小田県(深津県)を経て岡山県に管轄が変遷。明治9年には、村南部にある向山や新田などの枝村や周辺村の飛地を併合。翌年には窪屋郡役所が村内に設置される。明治20年に町制施行し、倉敷町へ改称。同33年には郡統合により都窪郡に所属が移った〔。 昭和2年に都窪郡倉敷町・万寿村・大高村の3自治体が対等合併し、新しい倉敷町を新設。翌3年に市制施行して倉敷市(旧)になり、のち周囲の町村を次第に編入合併していき、昭和42年に倉敷・玉島・児島の3市が合併し、新しい倉敷市を新設し現在に至っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倉敷町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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