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倪 道烺(げい どうろう)は、中華民国の政治家・軍人。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。字は炳文。北京政府・安徽派の有力軍人であった倪嗣沖の甥。 == 事跡 == 1913年(民国2年)、安徽督軍となった倪嗣沖の下で、倪道烺は長蘆塩雲銷総局総弁となる。1918年(民国7年)、鳳陽関監督に任ぜられた。1921年(民国10年)6月2日、倪道烺は学生デモを武力で鎮圧したため(安徽六・二惨案)、非難を浴びて失脚し、一時天津に蟄居している。 1924年(民国13年)11月、段祺瑞が臨時執政として復権すると、安徽軍事善後特派員に任命された。1927年(民国16年)初頭に、張宗昌が安国軍副総司令兼直魯聯軍総司令になると、倪道烺は直魯聯軍予備軍軍長となった。しかし、直魯聯軍が中国国民党の北伐軍に敗北すると、倪は再び天津に逃げ込んで蟄居した。 1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、倪道烺は梁鴻志、殷汝耕、江朝宗、王揖唐らと密かに連絡を取り合い、親日政権樹立を画策する。翌年7月、安徽省地方維持会会長となる。11月、中華民国維新政府に参加して安徽省省長に任ぜられた。 1940年(民国29年)3月、倪道烺はそのまま汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、9月、安徽省政府主席に改めて任ぜられている。1943年(民国32年)1月〔劉寿林ほか編『民国職官年表』、1115頁による。なお、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、1941年(民国30年)12月8日に安徽省政府主席を辞職し、同日中に国民政府委員に異動した、としている。〕、安徽省政府主席から安徽省長に改めて任ぜられたが、同月中に辞任した。なお、1942年(民国31年)からは、国民政府委員をつとめている。 日本敗北後、倪道烺は蒋介石の国民政府により、漢奸として逮捕された。中華人民共和国成立後の1952年3月、身柄を蚌埠市に移送されている。5月10日、蚌埠市軍事管制委員会軍法処により、改めて「叛国投敵」の罪に問われて処刑された。享年74(満73歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「倪道ロウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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