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備州山大八郎 : ウィキペディア日本語版
備州山大八郎[びしゅうやま だいはちろう]

備州山 大八郎(びしゅうやま だいはちろう、1919年11月4日-1962年3月19日)は、1940年代から1950年代にかけて活躍した大相撲力士である。広島県沼隈郡松永町(※出生当時、現在の同県福山市松永町)出身、本名は三谷 順一(みたに じゅんいち)。現役時代は、荒磯部屋(入門時は伊勢ヶ濱部屋)に所属した。最高位は東関脇1945年11月場所)。身長167cm、体重128kg。得意手は左四つ、突き、押し。
== 来歴・人物 ==
実家は下駄製造業者で、小学生の頃は相撲の他、柔道水泳も得意であった。
16歳の時に上京して伊勢ヶ濱部屋へ入門し、1936年1月場所に於いて、初土俵を踏んだ。
番付に付いてからすべて勝ち越して、1941年1月場所で新入幕を果たす。
短躯肥満の体型からの鋭い突き押しが得意で、新入幕から3場所連続で負け越したが東西制の時代だったので、逆に番付が上がるという現象を見せてしまった。
1942年5月場所、初めての対戦で横綱羽黒山を破り、金星を獲得。以後羽黒山を何度も破り、対戦成績は備州山からみて2個の不戦勝も含めて7勝6敗と、互角に戦った。なお、羽黒山引退の時の最後の不戦敗は備州山相手のものである。
1945年6月、空襲のさなかに行われた本場所で、備州山の大活躍があった。この場所は5月に神宮外苑で予定されていたものが空襲で延期され、6月に両国国技館でほぼ非公開〔この場所は関係者を除けば傷痍軍人が観戦に招待されるに過ぎず、幕下以下の取組は春日野部屋の稽古場で行われた。〕の状態で、7日間で実施されたものだった。東前頭筆頭の備州山は初日に羽黒山を破って勢いに乗り、そのまま全勝、幕内最高優勝を遂げたのである。備州山の幕内優勝はこの1回だけであるが、1956年に発行された「相撲」誌増刊号「戦後相撲十年史」は、戦後の「プロローグ」(序幕)と題して、天皇賜杯を抱く備州山を巻頭グラビアに飾り、戦後大相撲の隆盛について<その源は、焼土の中に闘った不屈の斗魂にある>と、備州山を称えているという。
翌場所では自己最高位となる東関脇に昇進、5勝5敗の五分の星を残したが、次の場所では小結に下げられた。その後は平幕の中堅力士として推移し、三役への返り咲きも一度だけだった。
最初は「びしゅうざん」と名乗っていたが、幕内に肥州山(出羽海部屋)がいて読みがまぎらわしいので、読みを「びしゅうやま」と変えた。
1955年1月場所では十両に陥落、幕内最高優勝経験者が十両で相撲を取る最初のケースになった。同年3月場所限りで引退し、年寄桐山を襲名して荒磯部屋や伊勢ヶ濱部屋付きの親方として後進の指導に当たっていたが、42歳の若さで亡くなってしまった。
引退後の備州山には、苦難が続いていた。経営していたちゃんこ料理店を赤字のために閉店し、自宅アパートが火事で全焼し、自身の死から1年後には一家の大黒柱の死で将来を悲観した未亡人が2人の娘を道連れに一家心中する事態まで起こった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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