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元 懌(げん えき、487年 - 520年)は、北魏の皇族。清河文献王。字は宣仁。 == 経歴 == 孝文帝と羅夫人の子として生まれた。幼いころから聡明で心やさしく、容姿が美しかったため、孝文帝は特に元懌を愛した。経書や史書を広く渉猟し、文才があり、談論を得意とし、寛仁大度で喜怒を顔に表さなかった。497年(太和21年)8月、清河王に封じられた。宣武帝の初年、侍中の位を受け、尚書僕射に転じた。 このころ司空の高肇が宣武帝の外戚として権勢をふるい、たびたび元懌や京兆王元愉らを誣告した。508年(永平元年)、元愉は怒りに駆られて冀州で反乱を起こし、敗死した。いっぽう元懌は高肇を王莽の故事を引きあいにして意見し、さらに聞き入れられなかったとはいえ、宣武帝に対して正面から諫めてみせた。512年(延昌元年)1月、司空に上った。 515年(延昌4年)2月、孝明帝が即位すると、元懌は司徒に転じた。8月、孝明帝の母(霊太后)により太傅・太尉となった。元懌は門下省の事務を決裁する職務をこなしながら、学問では経典に注解をほどこした。霊太后は強制的に元懌と関係を迫り、元懌はやむなく従った。霊太后は元懌を信任して孝明帝を輔弼させた。 このころ沙門の恵憐という者が、呪水を人に飲ませて諸病を治療すると称し、日に訪れる病人が1000人を数えていた。霊太后は恵憐に衣食を与えて優待し、洛陽城の西南で人民の病を治療させようとした。元懌は張角が民衆を惑わして黄巾の乱を起こした後漢の故事を引いて太后を諫めた。 領軍の元叉は太后の妹の夫であり、寵をたのんで驕慢な行動が多かった。元懌は元叉を法をもって裁こうとし、その専横を抑制しようとしたため、元叉に憎まれた。元叉は仲間の通直郎の宋維希に元懌の反乱計画を告発させ、元懌を門下省に監禁させ、その側近や朝廷の貴族たちを訊問させた。朝廷は元懌の叛意を信じず、元懌の冤罪はひとたびそそがれ、釈放させた。元懌はいにしえの忠烈の士の伝記を集めて、『顕忠録』20巻を作り、世間に意見を示した。 520年(正光元年)7月、元叉と劉騰が顕陽殿で孝明帝に迫り、霊太后を後宮に幽閉させ、元懌を門下省に捕らえて罪状を誣告し、殺害した。享年は34。525年(孝昌元年)11月、霊太后は復出し、元懌は使持節・仮黄鉞・太師・丞相・大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・侍中・太尉公の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元懌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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