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元文の黒船[げんぶん の くろふね] 元文の黒船(げんぶん の くろふね)とは、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との初めての接触であった。 ※本項における日付は日本側は貞享暦、ロシア側はユリウス暦によるものであり、現行のグレゴリオ暦とは異なる。 == ロシアの東方伸張とベーリング探検隊 ==
ロシア帝国は16世紀末のロマノフ朝成立前後から、盛んに東方への勢力伸張を図り、シベリア以東方面へ進出した。ピョートル大帝は日本へも大いに関心を持ち、1695年にカムチャツカに漂流した日本人伝兵衛に謁見を許し、1705年には首都サンクトペテルブルクに日本語学校を開設して、伝兵衛をその教師とした。またピョートルの命によりデンマーク出身でロシア海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング率いる探検隊が組織され、ピョートル没後の1727年にオホーツクに到着、翌年夏カムチャツカ半島から北上し、ユーラシア大陸とアメリカ大陸との間の海峡(ベーリング海峡)を通過して、陸続きではないことを確認するなどの成果を挙げていた。 1733年にはベーリングは第二次探検隊を組織。北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案する。日本への航路の探検および日本の調査のため、分遣隊長として同じくデンマーク出身のマルティン・シュパンベルクを任命した。 1738年6月18日(日本では元文3年5月13日)シュパンベルクはミハイル号、ナデジダ号、ガブリイル号の3隻150人から成る船団でオホーツクから出港したが、食糧不足により、いったん8月17日にカムチャツカ半島西岸のボリシェレツクへ引き返した。翌年改めて日本への探検を主目的とした第二次航海が行われることになり、1隻を追加して5月21日(日本では元文4年4月25日)にボリシェレツクを出港。南へ進路を取り、4日後には千島列島(クリル諸島)を通過。その後も南下を継続するが、6月14日に濃霧によりガブリイル号が船団から離れ、またウォールトン大尉率いるナデジダ号も何らかの理由によって別行動をとることになる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元文の黒船」の詳細全文を読む
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