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光山 英和(みつやま ひでかず、1965年11月20日 - )は、大阪市生野区出身の元プロ野球選手(捕手)、野球解説者、野球指導者。韓国球界での登録名は、金英和(キム・ヨンファ、)〔。 == 来歴・人物 == === 現役時代まで === 上宮高校ではの第55回選抜大会に出場。1回戦で仲田幸司、仲田秀司のバッテリーを擁する興南高を破るが、2回戦で明徳義塾に敗退〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。1年下のチームメートに控え外野手の笘篠賢治がいた。 同年秋のプロ野球ドラフト会議にて近鉄バファローズから4巡目指名を受け入団。 2年目までは二軍生活だったが、3年目のからは正捕手・梨田昌孝の衰えなどもあり、山下和彦や古久保健二と共に一軍に帯同することが多くなった。は序盤ケガで出遅れていたが、終盤に復帰し、シーズン最終戦では5打数4安打の活躍を見せた〔朝日新聞、1989年10月25日付朝刊、P.22〕。日本シリーズでは第2戦で負傷退場した山下に代わり途中出場し2打数2安打、先発マスクを被った第3戦ではシーズンで1本も打てなかった本塁打を放ち、先発の加藤哲郎とともにヒーローインタビューを受けている〔。 には 野茂英雄とバッテリーを組み、古久保との併用も有ったが正捕手の座を獲得。打撃面でも2桁本塁打を記録している。それ以降も100kgの巨体から繰り出される豪快なバッティングを見せ正捕手の座を保っていたが、1月に野茂がメジャーリーグ挑戦のため退団すると、的山哲也ら若手の成長もあって出場機会が減った。9月には打撃練習中に自打球が当たり、右足薬指を骨折している〔朝日新聞、1996年9月8日付朝刊、P.21〕。 開幕直前の3月31日に、金銭トレードで控え捕手の故障が相次いでいた中日ドラゴンズへ移籍〔読売新聞、1997年4月1日付朝刊、P.22〕。しかし、中日では出場機会が少なく、結果を残すことができなかった。 5月16日、正捕手・村田真一が顔面への死球を受けて戦列を離れた読売ジャイアンツが経験豊富な捕手を求め、中堅の底上げを望んだ中日との交渉により同じ捕手の吉原孝介との交換トレードで巨人へ移籍〔読売新聞、1999年5月17日付朝刊、P.16〕。移籍後すぐに先発出場した同月19日の対ヤクルト戦ではいきなり3打席連続安打を放っている。また、古巣の中日相手に起用され、6月にこのカードで6勝2敗と勝ち越す原動力になった〔読売新聞、1999年6月24日付夕刊、P.3〕。 はベテラン杉山直輝や若手の村田善則ら他の捕手陣が好調だったため一度も一軍に上がることなく戦力外通告を受けた。なお、巨人時代は妻子を名古屋に残し、一人で独身寮に住んでいた。同年オフに入団テストを受け、千葉ロッテマリーンズへ移籍〔読売新聞、2000年11月6日付朝刊、P.25〕。同年故障者が多かったチームで、特に終盤の守備固めとして期待されていた〔。 しかし4月1日の対オリックス戦で死球を受けて右足親指を骨折する〔読売新聞、2001年4月4日付朝刊、P.17〕不運もあり、1年で戦力外通告を受けた。オフにはアトランタ・ブレーブスの入団テストを受けた〔読売新聞、2001年12月3日付夕刊、P.3〕ほか、メキシカンリーグにも参加した。3月15日に捕手の故障が相次いだ横浜ベイスターズへ移籍している〔読売新聞、2002年3月16日付朝刊、P.21〕。3番手の捕手として期待されたが戦力外となり同年シーズン終了後に一度は現役を引退。しかし、コーチとしてのオファーを受けて参加した韓国プロ野球(KBO)のロッテ・ジャイアンツの秋季キャンプで動きを評価され、選手として入団〔毎日新聞、2003年3月19日付夕刊、P.6〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光山英和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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