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光岡龍三郎[みつおか りゅうざぶろう]
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日〔無声映画鑑賞会, p.162.〕)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.562-563.〕。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である〔〔『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年、「光岡龍三郎」の項。〕。 == 来歴 == 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる〔。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる〔。 当初舞台劇の俳優であったが〔、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し〔、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する〔。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る〔。1926年(大正15年)、高木新平主演、仁科熊彦監督の『帰って来た英雄』前篇・後篇に出演、中国人役を演じて注目される。同役で「和製」との賞賛を受ける〔。同年、村越章二郎監督の『鳴門秘帖』では主役に抜擢された〔。以降、東亜キネマの主力の剣戟俳優となった〔〔。1928年(昭和3年)1月27日、若木染と結婚、染との間にその後6男6女をもうける〔。そのうち長男中澤光喜は、長じて録音技師となった〔。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に移籍した。1936年(昭和11年)からは、牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所に所属した。同社の崩壊後は、新興キネマに移籍、1942年(昭和17年)、第二次世界大戦の戦時合併以降は、そのまま大映京都撮影所に戦後まで在籍した。 1961年(昭和36年)に引退し〔、同年8月4日、胃がんのため死去した〔〔。満60歳没。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光岡龍三郎」の詳細全文を読む
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