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光文事件[こうぶんじけん] 光文事件(こうぶんじけん)とは、1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御の折、「大正」の次の元号をめぐって起こった誤報事件である。 == 概要 == 1926年(大正15年)12月25日午前1時25分に大正天皇が48歳で崩御したが、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が同日午前4時に発行した「聖上崩御」号外及び朝刊最終版(市内版)において「元号制定 『光文』と決定―枢府会議で」の見出しで、新しい元号として「光文」「大治」「弘文」等の諸案から「光文」が選定されたと報道した〔昭和改元で大誤報 、新聞博物館 、熊本日日新聞〕。しかし、実際に宮内省が同日午前11時頃に発表した新元号は「昭和」であったために誤報となり、社長の本山彦一が辞意を表明する事態になったが、編輯主幹だった城戸元亮が辞任〔後に大阪毎日新聞編集主幹に復帰。〕することで事態が収拾された。 真相については諸説ある。この報道の情報は新元号を決定するための枢密院会議に参加した者からもたらされたといわれているが、定かではない。また、巷では当時の宮内省が情報が漏洩したことに腹を立て、内定した「光文」から「昭和」に急遽変更したとの噂もあった。このことは猪瀬直樹著の『天皇の影法師』で触れられているが、他の関係者の日記には記載がないとして全面的に支持があるものではない。 また、当時宮内省内に番記者として張り付いていた、東京日日新聞・毎日新聞で長く皇室記者を務めた藤樫準二の回顧〔『サンデー毎日』1961年4月2日号。〕によれば、社会部長から「政治部から、「元号が『光文』に決まった」という話が来たのだが」という問い合わせに対し、藤樫は「何も報告を受けていない」と返事したものの、その間に「新元号・光文」と刷られた早刷りの朝刊が配られた、ということである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光文事件」の詳細全文を読む
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