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光明寺残篇 : ウィキペディア日本語版
光明寺残篇[こうみょうじざんぺん]
光明寺残篇(こうみょうじざんぺん)とは、伊勢国(現在の三重県伊勢市)の光明寺に伝わる古文書をまとめて1冊にしたもの。国の重要文化財
== 概要 ==
天和2年(1682年)に出口延経度会延経)が光明寺で発見した元弘の乱に関する古文書を仮に繕写されたのが最初とされる。天保15年(1844年)になって世古延世によって文書の年代順に配列を直されて出版された。
日記と文書類からなるが、日記は元弘元年(1331年)8月から10月にかけて、後醍醐天皇京都脱出から赤坂城攻防戦までの元弘の乱の流れを記したものである。光明寺に存したのは写本ではあるが、元弘の乱から程ない時期の写本と推定されている。寺伝では、日記の原著者を同寺で没した南朝方の有力武将結城宗広とするが、内容は 鎌倉幕府寄りの記述で実際の原著者は幕府に仕えた別の人物と考えられている。一方、文書は元弘元年と3年(1333年)のもので、後醍醐天皇の京都脱出を受けて鎌倉幕府が軍を動員・上洛させたことに関する文書、足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府を離反して後醍醐天皇方について六波羅探題を攻撃したことに関する文書、乱終了後に高氏が幕府側残党追討を命じた文書などから成立しており、元弘の乱に関する貴重な史料とされている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「光明寺残篇」の詳細全文を読む



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