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光永秀時 : ウィキペディア日本語版
光永秀時[みつなが ひでとき]
光永 秀時(みつなが ひでとき、生年不詳 - 大永5年(1525年))は、安芸国戦国大名毛利氏の庶家・坂氏の一族。毛利元就の家臣で戦国時代戦国武将。父は坂広秋。子に光永元方他。兄弟に坂広明坂広時志道広良。通称は新四郎、三郎兵衛。官途は下総守。

== 生涯 ==
坂広秋の三男として生まれる。成人の後に毛利氏家臣として働き、1523年(大永3年)に毛利元就が家督を継承した際には、その家督相続推進役の一人となった。一門の坂広秀らが、この家督相続に不満を抱き、相合元綱を擁立して叛旗を翻すも、秀時はこれに同調せず、元就に従った。その後、毛利氏が尼子氏の傘下に入ると、人質として赤川就秀らと月山富田城に送られた。
1525年(大永5年)、毛利元就は尼子氏との手切れを決意。秘密裏に月山富田城内の人質に逃亡するように連絡をし、秀時らは脱走。しかし、逃げる途上で追撃を受け、井上元貞と共に討死した。逃げおおせた赤川就秀は月山富田城の詳細を元就に知らせ、後に毛利氏が月山富田城を攻める際に参考とされた。
家督は嫡男の元方が継いだ。子孫は萩藩大組士(禄高200石)として続いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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