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光陽郡(クァンヤンぐん、광양군)は大韓民国全羅南道にあった郡。現在は光陽市の一部である。 == 歴史 == * 高麗時代 * 940年(太祖23年) - 「馬老」(牟婁)・「曦陽」から現在の地名である「光陽」に改称。 * 983年(成宗2年) - 全国に12の牧を設置と同時に昇平郡が昇州牧に昇格。 * 1108年(睿宗3年)あるいは1172年(明宗2年) - 監務が廃止され、昇州から分離。あわせて18の部曲が光陽郡の管轄になる。〔大東地誌・光陽沿革條(金正浩編、1864年)地方沿革研究p274(1988)/光陽郡誌p344(1983)〕 * 李氏朝鮮時代 * 1392年 - 李氏朝鮮建国。監務が県監になり、完全に独立な行政単位となった。 * 1597年 - 小西行長の兵隊が光陽邑城を占領したが、全羅兵使・李光岳と求礼県監・李応書が統率した朝鮮兵隊によって奪還。邑城が廃墟になり、県も一時的に順天都護府の管轄下に入った。 * 1600年から1604年 - 廃墟化した邑城の復旧とともに、県が再置された。 * 面里制が敷かれるとともに、県内に牛蔵面・沙羅谷面(四谷面)・骨若面(七骨若面)・玉谷面・津上面・津下面・月浦面・多鴨面・七星面・仁徳面・内面・玉龍面の12面が成立した。1789年の時点で、県内には3706戸、17586人があり、女性のほうが男性のほうよりやや多い。 * 1869年(高宗6年)と1889年(高宗26年)に2回の農民蜂起が発生。 * 1894年 - 東学党運動で光陽県内には多くの東学教徒が逮捕・殺害された。 * 1895年6月23日(陰暦閏5月1日) - 二十三府制による行政区域再編で、県制が廃止されるため、光陽郡に昇格し、南原府の管轄となる。〔勅令第98号・地方制度改正件(1895年陰暦5月26日)〕 * 1896年2月 - 突山郡の設置により、光陽郡に属した9つの島が同郡に編入。 * 1896年8月4日 - 十三道制によって全羅南道所属の四等郡になる〔勅令第36号・地方制度官制改正件(1896年8月4日)〕 * 近代・現代 * 1914年4月1日 - 郡面併合により、突山郡の一部(太仁面の一部)が光陽郡に編入。光陽郡に以下の面が成立(9面)。〔朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)〕 * 光陽面・鳳岡面・仁徳面・玉龍面・骨若面・玉谷面・津上面・多鴨面・津月面 * 1915年1月1日 - 多鴨面の一部が慶尚南道河東郡徳陽面に編入(9面)。 * 1925年4月1日 - 仁徳面が光陽面に編入(8面)。 * 1949年8月14日 - 光陽面が光陽邑に昇格(1邑7面)。〔大統領令第162号・邑の設置に関する件(1949年8月13日)〕 * 1966年6月1日 - 骨若面太仁里・金湖里を管轄する太仁出張所を設置。〔郡条例第205号(1966年6月1日)〕 * 1973年7月1日 - 骨若面の一部(松里)が麗川郡栗村面に編入(1邑7面)。〔大統領令第6542号(1973年3月12日)〕 * 1983年2月15日 - 骨若面太仁出張所が太金面に昇格(1邑8面)。〔大統領令第11027号(1983年1月10日)〕 * 1986年1月1日 - 骨若面・太金面および玉谷面広英里を管轄する全羅南道光陽出張所を設置。 * 1989年1月1日 - 全羅南道光陽出張所の管轄区域が東光陽市に昇格・分離(1邑6面)。〔法律第4050号・烏山市等の12市及び泰安郡の設置と郡名変更に関する法律(1988年12月31日)〕 * 1995年1月1日 - 光陽郡が東光陽市と合併し、光陽市が発足。これにより光陽郡は廃止。〔法律第4801号・全羅南道光陽市等の2つの都農複合形態市の設置等に関する法律(1994年12月22日)〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光陽郡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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