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児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月 - 1960年5月23日 〔1960年5月24日『朝日新聞』(東京本社発行)夕刊、7面の訃報より〕)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 == 経歴 == 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。 1936年9月、島根県知事となり、以後、内務省神社局長兼造神宮副使、福岡県知事、愛知県知事、厚生次官、東京都次長などを歴任。 1945年8月、中国地方総監・大塚惟精が原爆投下により被爆死したため、その後任に就任。1945年10月11日から同月27日までの短期間、広島県知事を兼任した。同年10月31日、地方総監府の廃止により失職。その後、新宿御苑保存協会副会長などを務めた。 内務省神社局長時代は明治神宮外苑競技場の改築案(未遂)に、戦後の明治神宮外苑管理部長時代は国立競技場建設に、それぞれ周囲の景観を守るよう訴えた〔後藤健生:編著『国立競技場の100年:明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』ミネルヴァ書房、2013年、211頁・238頁〕。 1960年5月23日死去。享年66。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉九一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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