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児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849年12月28日) - 明治42年(1909年)1月24日)は、和歌山県の民権家、官吏、衆議院議員(3期)、大日本水産会名誉会員。 == 経歴 == 紀伊国那賀郡中山村生まれ。同窓に濱口梧陵、陸奥宗光など。 はじめ、森田節斎について漢学を学び、京阪の鴻儒について文学を修める。明治6年(1873年)に慶應義塾に入学し、卒業後に大蔵省記録局(13等)に出仕。のちに辞して自由民権運動に参加。明治9年(1876年)の地租改正について、和歌山県令・神山郡廉に提出した建白書を発端にして、「粉河騒動」の端緒となる。 明治10年(1877年)陸奥宗光の協力により、粉河に風猛学校を設立し、翌年に自由民権の結社・実学社、木国同友会を率いる。豪農層の指導者的な存在となっていき、明治12年(1879年)の第1回和歌山県議会議員選挙に当選以来、那賀郡長、県会議長を歴任。明治19年(1886年)に『和歌山日々新聞』を創刊し主宰。その他、紀州徳川家の援助を得て紀和鉄道の鉄道敷設に尽力しのち監査役。 第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第2区から出馬し初代衆議院議員に当選し、次の第2回総選挙で再選。1900年12月、和歌山県第1区選出の浜口吉右衛門の辞職に伴う補欠選挙で当選し〔『官報』第5237号、明治33年12月14日。〕、衆議院議員を通算三期務めた。自由党を経て立憲政友会に所属し、紀伊好友会幹事長となる。ほか、大日本水産会名誉会員などを歴任した。 原敬の秘書官・衆議院議員を務めた児玉亮太郎は長男〔和歌山県那賀郡『和歌山県那賀郡誌 下巻』、1923年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉仲児」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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