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児玉 光雄(こだま みつお、1947年8月13日 - )は日本のスポーツ心理学者、追手門学院大学客員教授、前鹿屋体育大学教授。専門分野はテニス方法学、臨床スポーツ心理学。特にスポーツの天才の思考・行動パターン分析のエキスパートで知られる。 == 人物 == 兵庫県出身。1971年、京都大学工学部金属加工科卒。大学時代はテニスプレーヤーとして、4年生の時に全日本学生選手権でベスト8になり、準々決勝で当時の学生ナンバー1の元デビスカップ代表選手・平井健一に敗れている。その試合を機に、平井とは親交を深めることになる。また、4年生の時、テニスの大阪毎日選手権で当時の日本ナンバー1だったプレーヤー小林功に勝利するという大番狂わせを演じた。 1970年~1974年、全日本選手権にも出場。1971年より住友電気工業研究開発本部に10年間勤務。1976年~1978年に企業派遣で米カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院に留学。工学修士号取得。 1981年独立。アメリカオリンピック委員会のスポーツ科学部門本部にて客員研究員としてスポーツ科学のデータ分析に従事。1982年、株式会社スポーツ・ソフト・ジャパンを設立し、スポーツ選手を中心とした右脳開発トレーニングに携わる。1999年に鹿屋体育大学体育学部助教授に就任、2006年に教授となる。 *落語 落語は高校時代から授業がない時に先生の机の上に座り、クラスメイトに落語を聴かせたという。初めて覚えた落語は「壺算」である。 高校時代から桂米朝に心酔し、追っかけをやっていた。米朝独演会には足繁く通い、楽屋にも押しかけた。度々楽屋を訪問するうちに米朝から可愛がってもらい、自宅に泊めてもらったり、米朝一門の忘年会に何度も参加したこともある。 京都大学入学後、当時存在しなかった落語研究会を数人の学生と創設、初代葵家竹生を名乗る。時計台下の法経教室で創設記念落語会を開催し、マスコミに大々的に報じられる。持ちネタは40を越え、当時若かりし頃の桂ざこば(当時朝丸)や、桂枝雀(当時小米)等に直接頼んで大学にボランティアで落語指導に来てもらったこともある。 大学時代に当時関西で絶大な人気を誇った西川きよし司会のテレビ番組「素人名人会」に出場し、その時の審査員をしていた米朝に「私この人知っています」と言わしめた。なお、名人賞ではなく「まあいいで賞」であった。同じ「素人名人会」の予選会に参加していたのが現在の桂南光であり、彼は補欠当選者であったが、後に彼は名人賞を取って落語界に入っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉光雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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