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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったという〔CIA Records - Name Files 〕〔ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋〕。暴力団・錦政会〔後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城〕顧問〔大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 p.273〕。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。三男はTBSサービス〔東京放送ホールディングス(TBSHD)子会社〕社長の児玉守弘〔こだま もりひろ、1943年5月17日 - 〕。 == 勝共右翼 == 戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた〔大下英治『黒幕 昭和闇の支配者 第1巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 4-479-30018-X p.16〕。父の酉四郎の旧姓は山田といい、先祖は代々二本松藩の藩士だった〔猪野健治著『日本の右翼』p.254〕。祖父は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった〔。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、来日して〔日本大学皇道科を卒業したということになっている。〕向島 (墨田区)の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。 最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。 その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏がつくった全日本愛国者共同闘争協議会に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。 1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党〔後の国粋同盟〕に参加。 1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察〔自著『われかく戦えり』広済堂出版、1975年、pp.321-327〕。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。 60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった〔顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。実名では天野辰夫や橘孝三郎、小沼正、佐郷屋留雄、笹川良一、三浦義一らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。〕。1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した〔日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。〕。60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。 1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟〔世界反共連盟の地域団体。後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる。「朝日ジャーナル」によれば、米国では、文鮮明-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明らかになっている。〕結成準備会」が開催された〔山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催。〕。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。 1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社〔前身は楠皇道隊〕が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉誉士夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yoshio Kodama 」があります。 スポンサード リンク
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