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児玉遠岩[こだま とおいわ] 児玉 遠岩(こだま とおいわ、系図上の没年月日は、延久2年8月7日(1070年))は、『児玉系図略図』に記載されている児玉氏祖。大夫、従五位下、河内守(児玉郡河内村を指す)、式部大輔。実在しなかった可能性が高い人物。実在していたとすれば、平安時代中・後期の人物。 == 系図・伝承上の児玉氏祖 == 萩藩伝書、児玉広高家所蔵の『児玉系図略図』等に記載されている児玉氏祖。系図上では、児玉党祖である児玉惟行(この系図では、従五位下、河内守とある)の父として記述されているが、武蔵国児玉郡での伝承や通し字の観点から惟行の父は有道惟能と研究者の間では考えられている。したがって、児玉大夫遠岩なる人物は系図上にのみ存在する児玉氏祖であり、実在しなかった人物と見られる。この系図では、児玉氏の姓を藤原としている事からも、14世紀中頃以後に作られたものと分かる。また、惟行の嫡男である児玉弘行(児玉党本宗家2代目)が庄氏を名乗ったと言う誤伝承もあり、庄氏の流れに至っては全く信用性がない系図である。 実質的な児玉氏祖である惟行の没した月日も8月7日である事から、これらの没年月日も創作されたものと見られる(惟行の没年月日も創作された可能性が出てくる)。また、系図上の子息とされる惟行の没年が延久元年で69歳で没したとされる事からも年齢に関して矛盾が生じてくる(惟行を基に創作した為か)。この事からも遠岩は西日本の児玉氏が自分達の系図を作る過程で創作した人物と見られる。さらに児玉郡の河内庄と言う庄名は惟行より後の代によってつけられたものであり、遵って、惟行やその父が河内守を称している事はおかしい。系図中には惟行が河内守を称したと記しているが、信憑性は高くない。なお、『武蔵七党系図』では、惟行の父は藤原伊周となっており、惟行は藤原伊行と同一視されているが、これも後世の創作と考えられている。 児玉遠岩が創作された理由として、惟行の真の父である有道維能が従六位上であり、貴族ではなかった事が挙げられる。維能は伊周に仕えていた家令であり、官人であったが、貴族ではない。その為、後世の児玉氏が先祖(氏祖)の威厳を高める為、位の高い人物を創作したと考えられ、それが遠岩だったと考えられる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児玉遠岩」の詳細全文を読む
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