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全国学生自治体連絡協議会(ぜんこくがくせいじちたいれんらくきょうぎかい)とは、1968年( 昭和43年)に結成された民族派学生組織。機関紙は『全国学生新聞』。理論誌は『アバンギャルド』。 == 全国学生自治体連絡協議会(全国学協)の結成 == 1966年(昭和41年)、全国反帝学生評議会連合(反帝学評。社青同解放派の学生組織)による長崎大学の西町学生会館占拠を、一般学生(有志会)が批判し、“学園正常化”の運動を起こし、同年10月には教養部自治会の奪権に成功する。この学生たちが1967年(昭和42年)7月に、全学連、全共闘に対抗する恒常的な組織として結成したのが長崎大学学生協議会(長大学協。椛島有三議長)である。 やがて、これら「学園正常化」の動きは、長崎大学から、他の九州の大学へも広がり、次々と学生協議会(学協)が結成された(大分県では別府大学の井脇ノブ子、大分大学の衛藤晟一が参画し、それぞれの大学に「学協」を結成した)。そして、彼らはその連携を強めるべく1968年(昭和43年)3月に九州学生自治体連絡協議会(九州学協。後に「九州学生協議会」と改称)を結成する。 学協は、1969年(昭和44年)5月に、全共闘による長崎大学教養部校舎のバリケード封鎖を実力排除。更に、8月には熊本大学で、11月には鹿児島大学本部で次々とバリケードを排除していった。 話は前後するが、学協結成の動きは九州ばかりではなく、たちまち全国へと波及した。四国、中国、関西、東海、関東、東北、北海道とブロック学協が次々と結成され、1969年(昭和44年)5月には東京都の九段会館に1800名の代表を集め、全国学生自治体連絡協議会(全国学協。後に「全国学生協議会連合」と改称)が結成されるのである。この「全国学協」は生長の家学生会全国総連合(生学連)、また「統一教会」(統一教会)系の学生組織、原理研究会の学生などが主体であった〔第061回国会 衆議院 地方行政委員会 第30号 昭和44年(1969年)5月9日〕。 学協結成の動きが九州ばかりでなく全国にたちまち広がったの理由の一つは、長崎大学学生協議会のメンバーの中に、椛島を始めとする生学連の活動家がいたことである。彼は、全国の生学連の仲間に学協結成に協力するよう要請、これに応えて、いくつかの大学では生長の家学生会が他の学内団体と共に学生協議会を結成するのである。 その後、生学連と全国学協は共闘関係となったが、学生は、両方の組織に所属・生学連だけ・学協だけ、の三者があった。 全国学協初代委員長となったのは、生長の家出身の鈴木邦男である(鈴木は1ヶ月ほどで当時の書記長であった安東巌らと対立し〔『日本の右翼――歴史的視座からみた思潮と思想』歩平、王希亮〕学協を離れ、後に一水会を結成)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「全国学生自治体連絡協議会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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