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全皇后 (孫亮) 全皇后(ぜんこうごう、? - 301年)は、三国時代の呉の廃帝孫亮の皇后。揚州呉郡銭唐県(現在の浙江省杭州市)の人。父は全尚。生母は孫恭(孫静の孫)の娘(孫峻・孫綝の姉)。『三国志』においては、全夫人と呼称されている。 == 経歴 == 全氏は容貌が美しく、人の気持ちがよく分かった。孫魯班(全公主)に愛され、よく孫権に目通りした。魯班は新たに父の寵愛を受けた末弟の孫亮に注目し、全氏を孫亮に嫁がせてほしいと孫権に勧めた。 孫亮が帝位につくと、皇后に立てられた。全尚をはじめ全氏の一族は高位に上り、外戚として勢威をふるった。 258年、成長した孫亮は孫綝の専横を憎むようになり、その謀殺を計画するようになった。この時、全尚は孫魯班や将軍の劉丞らとともに、その暗殺計画に加わった。しかし、孫綝は事前に計画を知ったため、軍勢を率いて宮城を占拠し劉丞を殺害、全尚の屋敷に夜襲をかけて捕虜とした。6月26日のことであった。密告者は孫綝の姉である全尚の妻だったともいう。この時、子の全紀が黄門侍郎として孫亮の命令を全尚に伝えたが、全尚がよく考えずに機密を妻に知らせたため計画が失敗した。そのため全皇后とともに孫亮から罵倒され、責任を感じて自害したという。 しかし、全懌・全端らが魏に降り全煕が処刑されると、全氏は衰えていった。孫亮が廃位され、侯官に遷されると、全皇后も従った。夫の死後も侯官に住み長寿を保ち、呉が晋に滅ぼされた後に内地へ戻ったが、永寧年間に死去した(『三国志』呉志「孫亮全夫人伝」及びそれが引く『呉録』)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「全皇后 (孫亮)」の詳細全文を読む
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