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全日本オートバイ耐久ロードレース(ぜんにほんオートバイたいきゅうロードレース)は、群馬県の浅間山麓で1955年から1959年までの間に3回開催されたオートバイレースのイベントである。一般的に浅間高原レースまたは浅間火山レースの通称で知られ、戦後日本のモータースポーツ黎明期における日本初の本格的なロードレースとして位置付けられるレースである。 なお、同時期に同じコースで開催された第1回および第2回''全日本モーターサイクルクラブマンレース大会''についてもこの項で述べる。 == 概要 == 日本小型自動車工業会の主催により1955年に北軽井沢周辺の公道コースで第1回が開催された。2年後の浅間高原自動車テストコース完成後の1957年に第2回、1959年に第3回が開催された。「全日本オートバイ耐久ロードレース」という正式名称よりも、「浅間高原レース」(第1回)または「浅間火山レース」(第2回以降)の通称の方が一般的には知られており、当時のチラシなどにも「浅間火山レース」の表記が見られる〔『浅間から世界GPへの道』(p.23, p.78)〕。 日本製オートバイの性能向上を目的とし、マン島TTレースを手本として開催された。しかし当時の日本には本格的なサーキットはもちろんのこと、TTレースを開催できるような舗装された公道コースも存在しなかった。第1回浅間火山(高原)レースが開催された浅間山麓の公道コースも、第2回以降が開催された浅間高原自動車テストコースも未舗装のコースであり、「ロードレース」と称してはいるものの実質的にはモトクロスの前身であるスクランブルレース、あるいはダートトラックレースに近いものであった。 それでも当時の日本ではほぼ唯一の本格的なオートバイレースであり、ホンダ、ヤマハ、スズキといった後にロードレース世界選手権で活躍するメーカーがその技術を磨いて世界レベルに追いつくきっかけとなった。また、北野元、高橋国光、伊藤史朗ら、後にロードレース世界選手権や4輪レースで活躍する多くの選手を輩出した〔ただし北野と高橋は厳密には「全日本モーターサイクルクラブマンレース」の出場者(アマチュア)であり、「全日本耐久ロードレース」には「招待選手」として出場していることに注意。〕。 「全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間火山レース)」はオートバイメーカーの対抗戦だったのに対し、1958年と1959年に浅間高原自動車テストコースで開催された全日本モーターサイクルクラブマンレース大会はアマチュアライダーのレースであり、大きく性格を異にする。しかし一部では両方とも「浅間火山レース」と呼ばれる場合もあり、1959年には両者が併催という形になったこともあって、根本的な意味合いが混同されている場合もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「全日本オートバイ耐久ロードレース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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