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全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件(ぜんにっくうよこはまサッカークラブ・ボイコットじけん)とは、1986年3月22日に東京都北区の国立西が丘サッカー場で行われた日本サッカーリーグ第22節、 全日空横浜サッカークラブ対三菱重工業サッカー部戦において全日空に所属する6選手によって実行された試合ボイコット事件である。この事件によりチームは3か月間の公式戦出場停止処分が、6選手には無期限登録停止処分が科せられた。 == 背景 == 1985年シーズンJSL1部の登録選手 日本のアマチュアスポーツの統括組織である日本体育協会は、「日本体育協会アマチュア規定」に基づき、傘下に置く全ての競技団体の登録選手をアマチュアに限定していた。プロとアマチュアという2つのカテゴリや団体を擁する競技では、双方の対立関係もあって交流は絶たれ、各競技の選手意識にもプロとアマチュアという概念は厳然な区分として刷り込まれていった〔。その一方で、日本テニス協会では1974年に「プレーヤーズ制度」を〔、同様に日本卓球協会では「レジスタード・プレーヤー」の制度を設けて〔実質的なプロ選手活動の承認を始めていた。1984年のロサンゼルスオリンピックにおいてプロ選手の参加が容認されるなどの世界的なオープン化の流れの中〔、これに対応するために日本体育協会は同年から「アマチュア規定」の改定に向けた協議を進めていた〔。 日本サッカー協会 (JFA) では「アマチュア規定」に基づき、選手登録をアマチュアに限定していたが、読売サッカークラブや日産自動車サッカー部や全日空横浜サッカークラブでは、選手が社業に就かずにサッカー専業で報酬を得ることが出来る「契約選手」と呼ばれる形態を非公式に採用し、チーム強化に乗り出していた〔。1986年3月の時点で、こうした「契約選手」は日本国内に50人以上存在していたが〔、日産では日本代表の中心選手だった木村和司のように推定1,300万円の年収を得ている選手も存在し、レギュラー選手の平均年収はボーナスを含め700万円前後だったと言われる〔。こうした契約選手はサッカーを専業とすることにより同世代のサラリーマンの平均水準より多くの収入を得ることが可能となる一方、トップクラスのサッカー選手が最盛期を維持できる期間の短さや、引退後の生活の不安などから社員選手として留まる選手もいた〔。 こうした国内の事情を受けてJFAは、1985年11月の理事会で「ノンアマ選手登録」、翌1986年には「プロ選手登録」の導入についての方針が打ち出され協議が進められていた。その一方、各チームの選手に対する身分保障や待遇についての明確な指針はなく曖昧なままであり〔、またJFAでも契約選手の雇用実態を把握し、早急な対応策を講じるなどの動きはなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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