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八九式十五糎加農砲[はちきゅうしきじゅうごせんちかのん]
八九式十五糎加農(はちきゅうしきじゅうごせんちかのん)は、1920年代から30年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の加農(加農砲)。俗称は八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)。 支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力重加農として、主に軍司令部直轄(「軍砲兵」)〔師団隷下の野砲兵連隊や山砲兵連隊(野砲・山砲・軽榴弾砲などの軽砲を運用)するは「師団砲兵」と称す。〕の独立(軍隊符号:s)の称呼を冠する「独立重砲兵(Fes)」が運用した〔十糎加農や十五糎榴弾砲などは主に野戦重砲兵が運用した〕。 == 概要 == 本砲は陸軍技術本部の新たな兵器研究方針のもと、1920年(大正9年)7月に研究が始まった。1922年(大正11年)10月に設計が完了し、陸軍重砲兵学校などにおける各種試験を経て1929年(昭和4年、皇紀2589年)10月に八九式十五糎加農として制式制定された。ただし制定後に砲脚を閉脚式から開脚式に改めるなど大改修が行われており、これは1931年(昭和6年)10月に終了した(同年9月に勃発した満州事変には、急遽生産された改良途中の試作に近い本砲2門が投入されている)。改修を経て完成した第5号砲は機能良好と認められ、これに基づき製作・正式図も修正、1933年(昭和8年)4月に改正制定された。 駐退復座機を備え、口径149.1mm・砲身長5,963mm(40口径)、三層々箍砲身で腔線は右方向に傾度7度で旋回、楔状腔綫が40条切られ、溝深さは1.5mmである。発射速度は毎分約1発で、砲弾には弾丸重量40.60kg・威力半径60mの九三式榴弾および、弾丸重量40.20kg・威力半径40mの九三式尖鋭弾を、装薬(薬嚢)には射距離によって一号装薬と二号装薬を使い分けた。最大射程は尖鋭弾と一号装薬を使用し18,100m。方向射界は広く左右40°であり、砲の架尾を移動することなく広範囲の射撃正面幅をもつ。 移動には本砲を砲身車(砲身を搭載)と砲架車(揺架や陣地設営材料等を搭載)に分け前車を付し、それぞれ九二式八屯牽引車(砲兵トラクター)により、常速度8km/h(急速度12km/h)で牽引された。射撃(砲撃)にはこの二車を結合して放列姿勢(射撃体勢)を整える必要があり、これには2時間程度の時間を要していたため、1940年(昭和15年)に単車牽引式に改めた試製装輪十五糎加農を開発、これは単車八九式十五糎加農として採用・整備された。単車八九式十五糎加農の牽引には九五式十三屯牽引車が使用された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八九式十五糎加農砲」の詳細全文を読む
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