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八原 博通(やはら ひろみち、明治35年(1902年)10月2日 - 昭和56年(1981年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 アメリカを熟知し、第32軍の高級参謀として沖縄戦での戦略持久作戦を指揮し、巧みな作戦指導で、圧倒的に優勢なアメリカ軍に大きな犠牲を与え、沖縄にアメリカ軍を当初計画の3倍の期間足止めした。〔五百旗頭真「日米戦争と戦後日本」講談社学術文庫2005年101頁〕アメリカ軍からは「すぐれた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されている。〔アメリカ陸軍戦史局編集「OKinawa The Last Battle」光人社2006年103頁〕 == 生涯 == 鳥取県米子市皆生出身。生家は養蚕農家(自作農)。父・八原宇三郎は役場吏員。 父・宇三郎の生家は村一番の地主ではあったが、次男の父は役場のささやかな給料、それに一町歩近い桑畑から上る養蚕の収入で生活をまかなっていた。水田や果樹園からの収入はごくわずかなもので、子どもがふえるに従い、自家飯米も確保できず、端境期には当時、南京米といった外米などを買わねばならぬといった状態だった。いわば、当時の平均的な貧しい農村の自作農だった。〔稲垣武『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』20頁〕父・宇三郎の兄は長年村長を務めており、当時米子では最高学府であった高橋塾で漢学を学んだインテリで、村の名士といってもよい存在だった〔稲垣武『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』23頁〕。小学校三年のとき、母・ちよのと死別。 米子中学校(現米子東高校、第17期卒、同期生に湯浅禎夫)を経て、1923年7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官。歩兵第63連隊付などを経て、最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を1929年11月に優等(5位)で卒業、恩賜の軍刀を拝領した。 1930年12月、陸軍省人事局付勤務となり、人事局課員(補任課)に異動。1933年10月から1935年12月までアメリカ陸軍の隊附として駐在した経験もあり、対戦相手であるアメリカをよく理解していた。この際、米国陸軍の砲兵力重視に大いに感銘を受けている。またアメリカ駐在中は、白人青年たちのもつ献身の精神と米国内での差別問題について所見をのべている。これらの視点からただの秀才ではないという片鱗を窺わせていた。 1935年11月、人事局課員(補任課)となり、陸大教官に転じ、1937年8月、歩兵少佐に昇進し第2軍参謀に就任。同年12月、第5軍参謀となり、陸大教官に異動。1939年8月、歩兵中佐に進級。1940年9月、大本営付仰付となり、タイ・マレー潜入、大本営参謀(作戦課)、タイ大使館付武官補佐官を歴任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八原博通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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