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八名 信夫(やな のぶお、1935年8月19日 - )は、俳優、元プロ野球選手。岡山県岡山市出身。血液型B型。悪役商会所属。本名は同じ。 == 来歴 == === プロ野球選手時代まで === 父の亀億(ひさお)は国鉄岡山駅の助役を終戦後に退職し、芝居小屋兼業の映画館を経営していた〔ラボ・インタビュー 八名信夫さん - 『ラボ』日本衛生検査所協会機関誌、2014年3月号、pp.3 - 7〕。 9歳で1945年の岡山大空襲に遭遇し、父の命で母・姉とともに後楽園に逃れて助かっている〔。その後疎開先の平島(現・岡山市東区)で終戦後に連合国軍の兵士がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球を始める〔。父はテニス選手だったためスポーツには理解があり、逆に劇場主として役者と接して生活を知っていたことから、役者になることには反対だったという〔。のちに八名がプロ野球入りしたときに父は東映フライヤーズが岡山でキャンプを張る援助もしたが、八名が23歳の時に肝臓がんのために亡くなっている〔。 出身小学校の岡山市立出石小学校は都市空洞化によるドーナツ化現象で児童数が減少し、2002年3月に廃校となった。閉校式には八名による講演会が行われた。 岡山東商業の2学年先輩に、のちに大洋ホエールズ (現・横浜DeNAベイスターズ)で活躍する秋山登・土井淳がおり、明治大学に進学していた。その縁から修学旅行のとき、神宮球場で明治大学の試合を観戦して進学先に決める〔。しかし、先輩部員からの「しごき」に耐えられずに2年生のときに中退〔新入生ながら野球部の一軍に抜擢されたことによる先輩部員からのいじめ被害に耐えかね、合宿を脱走した経緯を持つ。当時上級生によるリンチが常態化しており、ある日いつものように先輩に殴られ78発まで殴られたのを数えていたが失神、介抱してくれた同期生の「このままだと、お前殺されるかもしれんぞ」の一言で脱走を決意し、その日のうちに合宿所を後にしたと回想している。〕、1956年にプロ野球・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)に投手として入団。3年目の1958年、日生球場での近鉄パールス(現・オリックス・バファローズ)戦の試合中に腰を骨折〔投球時にスパイクの歯がピッチャープレートに刺さったことが原因という。〕して入院、選手生命を断たれて現役を引退した〔。東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバーである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八名信夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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