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八幡山定吉[やはたやま さだきち] 八幡山 定吉(やはたやま さだきち、1858年6月25日(安政5年5月15日) - 1914年(大正3年)3月11日)は土佐国土佐郡(現・高知県高知市)出身の大相撲力士。最高位は大関。本名は廣田(のち伊藤)貞次。身長170cm、体重101kg。所属部屋は猪名川部屋(大阪)→玉垣部屋(東京)→大嶽部屋→根岸部屋→友綱部屋。 == 略歴 == はじめ大阪の猪名川部屋に入り、二段目まで上がった後1884年(明治17年)1月兄弟子の海山と共に東京に出て9代玉垣の門人となり二段目番付外で取る。1886年(明治19年)1月入幕。技能派の花形力士として人気を集め1891年(明治24年)6月大関に昇進した。全盛期はこの頃であり、その後は得意の足癖が災いしたびたび膝を脱臼、気分的に腐って脱走し髷を切ってザンギリ頭で出場したことがあった。1894年(明治27年)1月無印張出(大関格?)となりこの場所限り引退。年寄6代湊川となったが海山の6代友綱と反りが合わず高砂部屋に移籍。神奈川県平塚に海水浴場を経営したが、このことが申合規則に抵触したため廃業して角界を去った。廃業後は郷里に戻り呉服屋を経営しながら土地相撲に尽力したりしたが職を転々とし不遇の内に1914年(大正3年)3月11日55歳で死去。170cm101kgと体格には恵まれなかったが足癖を得意として人気は高かった。 *幕内成績16場所51勝25敗18分6預60休 大関在位5ないし6場所 *優勝相当成績2回
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八幡山定吉」の詳細全文を読む
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